福岡ソフトバンクホークス
所属連盟 | パ・リーグ |
---|---|
運営会社 | 福岡ソフトバンクホークス株式会社 |
オーナー | 孫正義 |
監督 | 藤本博史 |
リーグ優勝回数 | 21回(優勝年:1946,1948,1951,1952,1953 1955,1959,1961,1964,1965 1966,1973,1999,2000,2003 2010,2011,2014,2015,2017 2020) |
日本シリーズ優勝回数 | 11回(優勝年:1959,1964,1999,2003,2011 2014,2015,2017,2018,2019 2020) |
福岡ソフトバンクホークス (ふくおかソフトバンクホークス) とは、福岡県をフランチャイズ(保護地域)とする日本のプロ野球チーム。パシフィックリーグに所属している。
ファームチームは当該ページを参照。
プロフィール[編集]
- 会社名 - 福岡ソフトバンクホークス株式会社
- 親会社 - ソフトバンク株式会社
- 一軍本拠地 - 福岡ドーム (愛称:福岡ヤフオク!ドーム)
経歴[編集]
関西フランチャイズ時代[編集]
1938年に南海電気鉄道によって南海軍 (なんかいぐん) として発足。その後、近鉄合併で近畿日本軍になるも、戦局悪化による活動を休止し、1946年に近鉄運営のグレートリングに、南海電鉄再興後の1947年6月1日からは南海ホークス (なんかいホークス) にチーム名を変えていった。しかしチーム成績が好調で大阪でホークスの人気が高かった時代であっても経営的には常に低迷し、南海内部でのホークスの立場は弱かった。
通常、鉄道会社が球団を経営する場合は、阪神の甲子園、阪急の西宮、東急の駒沢や西武の西武ドームのように自社以外の鉄道では来場困難な場所に本拠地球場を構えて自社鉄道の利用客数増加に貢献させるのが常策だが、南海は球団競合のある関西圏で難波という南海以外の路線(近鉄・大阪市営地下鉄等)でも来場可能な立地にあったため[注釈 1]本業の増収にあまり貢献せず、毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争の度にやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあったが、オーナーの川勝傳は球団保有に固執した。
南海沿線の堺市への移転話もあり、当初の計画案では、中百舌鳥球場(二軍本拠地兼練習場)もしくは堺大浜球場を増改築して本拠地とし、改修中の暫定措置として日本生命球場や、住之江区で計画されていた大阪市南港中央野球場を使用することも検討されていた。
1988年4月にオーナーの川勝が死去すると一気に身売りに傾き、シーズン終了後にダイエーに球団が譲渡された、同時に福岡県の平和台野球場 (現存せず) に移転を決め、福岡ダイエーホークス (ふくおかダイエーホークス) に改名。ライオンズ撤退から10年ぶりに九州本拠のプロ野球球団が誕生した。
ダイエー時代[編集]
福岡移転初期には、当時ダイエーと資本関連があったサンテレビジョンでも随時自社制作、あるいは九州朝日放送(KBC)・TVQ九州放送協力でホームゲームの中継を行っていた(1989年から1994年ごろと、2001年)。1993年に本拠地を地行浜の福岡ドームに移転した。
1995年には王貞治監督が着任するも低迷が続き、1996年にはいわゆる生卵事件が発生。他にもスタンドから「王ヤメロ、王ヤメロ、やる気が無いなら辞めちまえ」という辞任を求めた野次が飛んだり、「頼むからヤメテくれ、サダハル」「その采配が、王まちがい(大間違い)」「ヘタクソ采配 王貞治」「病原性敗北菌 OH-89」「さよならダイエー、こんにちはアサヒビール」「門田 助けてくれ!」「南海 復活!」「杉浦監督再登板」「チーム不振 山本和範解雇の責任を取れ 瀬戸山隆三」「5年も待てるか 今すぐ辞めろ! サダハル」「忌中」などの散々な横断幕が掲げられる光景があったほか、FDHの頭文字が不甲斐ない(F)・だらしない(D)・恥ずかしい(H)の略だとも言われた。
1999年に福岡に移転して初めてのパ・リーグ優勝、そして日本シリーズでは中日ドラゴンズと対戦の末見事に日本一になった。翌2000年はパ・リーグ連覇、そして日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツと対戦したが日本一を逃す。この日本シリーズは長嶋監督対王監督の対決になり、V9時代の 「ON砲」 から 「ON対決」 とも言われた。
ダイエー時代は強力打線を前面に押し出した野球を展開。ただし平和台時代は投手力の弱さから終盤での逆転負けが多かったため、親会社に掛けて「閉店間際の大バーゲン(または大売出し)」とも呼ばれた。1994年には「おっしょい打線」、2001年には「ダイハード打線」という愛称が付いた。特に2001年以降は小久保裕紀や松中信彦、城島健司、井口資仁といった中軸を担う日本人選手のレベルが高く、来日以来3年連続で打率3割をマークしたペドロ・バルデスや、ホークス外国人のシーズン最多本塁打をマークしたフリオ・ズレータでさえ、彼らが極度のスランプに陥るかけがで戦線を離脱しない限りはクリーンナップを打てないほどだった。2003年以降は、それまで打線の中核を担ってきた選手の長期離脱や退団(2003年に小久保(2006年オフにFAで復帰)、2004年に井口、2005年に城島など)が相次ぎ、助っ人外国人やトレードによる獲得でしのいでいる。
2003年に4年ぶりパ・リーグ優勝、日本シリーズでは星野仙一監督率いる阪神タイガースと対戦し日本一に。この後2004年・2005年とホークスは2年連続でパ・リーグ首位に立った。しかし、実際には2004年にプレーオフが導入されており、2004年は西武ライオンズに、2005年は千葉ロッテマリーンズにプレーオフで敗れたため優勝を逃している。またダイエーの経営危機もあって身売り話が多かった。
SB身売り後[編集]
結果的に2005年からは親会社がソフトバンクになり、現在の福岡ソフトバンクホークスとなる。
2010年代以降は日本ハムと並び強豪チームのひとつになっている。まず秋山幸二監督時代の2010年にリーグ優勝を果たすが、クライマックスシリーズでロッテ[注釈 2]に敗れ日本一はならず。次いで2011年にリーグ連覇、そして日本シリーズではセ・リーグ優勝の中日を倒し8年ぶりの日本一に。3年後の2014年にも再びリーグ優勝、そして日本シリーズではセ・リーグのクライマックスシリーズ優勝チームである阪神[注釈 3]を4勝1敗で倒し日本一になった。翌年の2015年、秋山に代わって工藤公康が就任したがリーグ連覇、その後日本シリーズではセ・リーグ優勝の東京ヤクルトスワローズを倒し球団初の日本一連覇。新人監督では史上10人目のシリーズ優勝[注釈 4][注釈 5]、また日本プロ野球史上初となる監督交代を挟んでの日本シリーズ連覇という記録を達成した。
2016年はファーム本拠地が東区雁ノ巣から筑後市に移転。一軍は北海道日本ハムファイターズに優勝を許し一旦2位に後退してしまうが、2017年に再びリーグ優勝、そして日本シリーズではセ・リーグのクライマックスシリーズ優勝チームである横浜DeNAベイスターズ[注釈 6]を4勝2敗で下し日本一を果たした。
2018年は埼玉西武ライオンズや日本ハムと上位を争い、最初は3位や4位だったが、8月に2位の日本ハムを抜いてソフトバンクが2位になった。それ以降は西武との優勝争いに発展したが、9月17日に西武に3連敗すると、西武の優勝マジック11点灯を許す展開となる。そして9月30日、西武は日本ハムに1対4で負けたものの、ソフトバンクもロッテに1対9で敗れたため、西武の優勝を許してしまう展開となった。しかしクライマックスシリーズではファーストステージで日本ハムに2勝1敗でファイナルステージ進出、そしてファイナルステージでは西武に (アドバンテージを含め) 4勝2敗で勝利し、日本シリーズ進出が決定した[1]。SMBC日本シリーズ2018では広島と対戦、4勝1敗1分で2年連続の日本一になった[2]。2019年、2020年の日本シリーズも対戦した巨人を下し、日本一を四年連続に伸ばしたばかりか、2020年にセ・リーグでDH制導入論議が起こるきっかけともなった。
2021年は前年とうって変わって低迷。工藤公康監督は公式戦終了後辞任。
2022年からは藤本博史二軍監督が昇格して指揮を取ることになった。2022年は序盤こそ好調な勢いを見せたものの、中盤に失速。9月後半にはソフトバンク・オリックス・ロッテの3つ巴となる。9月30日時点でソフトバンクが残り2試合を連敗し、かつオリックスが最終戦を勝利しない限りリーグ制覇となる。しかし、まさかの2連敗&オリックスが最終戦に勝利したため土壇場で順位が入れ替わり、ペナント制覇を逃してしまった。クライマックス・セカンドステージも1勝しかできずにこの年は終わった。オフには有原航平・近藤健介・嶺井博希・オスナを補強した。
2023年は開幕ダッシュに成功するものの、4月18日からの2週間で3勝9敗と大きく失速。その後は3位と4位を行ったり来たりする戦いが続く。6月後半には一度首位に立つも、7月前半にはまさかの12連敗を喫し、一気に3位まで転落&自力優勝が消滅。最終盤で2位に浮上するものの、最終戦でオリックスに1勝を献上し、翌日の楽天対ロッテ戦でロッテが勝利したことにより、2年連続で最終戦終了後に順位が入れ替わり、3位で終わった。CSはロッテに1勝2敗で敗れ、3戦目終了直後に藤本監督の辞任と小久保裕紀二軍監督の昇格が発表された。
近年は人気チームのひとつで、本拠地の福岡ヤフオク!ドームでは、一塁側・ライト側はもちろんのこと、三塁側・レフト側もホークスファンが占めることがほとんどである。また、保護区域外のTOKYO MXでもホームゲームを中心に野球中継が行われている。
ファンを公言する有名人[編集]
地元の九州地方に加え、南海時代から応援している関西出身・在住のファンも多い。
- 古賀之士 - 参議院議員。元FBS福岡放送アナウンサー(古賀ゆきひと)。ホークス福岡移転時より『ズームイン!!朝!』の人気コーナー「プロ野球イレコミ情報」を担当。当時は唯一のパリーグ応援をしていた。
- 間寛平 - 南海時代からのファン。
- 橋本環奈 - 福岡県出身の女優。
- 藤井フミヤ - 福岡県出身。球団の応援歌『勝利の空へ』の作詞作曲も手掛けた。
- 森脇健児 - 南海時代からのファン。
台湾での公式戦[編集]
2002年5月14日・15日に、台北市立天母棒球場で対オリックス・ブルーウェーブ2連戦を開催した。井箟重慶によると、台湾での公式戦はもともとオリックスが計画していたものの、収支面の見通しが立たずに断念。計画が宙に浮く格好になっていたが、2002年にダイエーが開催に漕ぎ着けたものだったという。なお、日本のプロ野球が海外で試合を行うのは戦後3回目(1961年5月20日の西鉄ライオンズvs東映フライヤーズ、1962年6月13日・14日の阪急ブレーブスvs大毎オリオンズが当時アメリカ合衆国の占領下にあった沖縄で行われた)だが、台湾での公式戦は戦後初である。
天母棒球場の収容人員は1万人ほどで、しかも興行権を台湾企業に6000万円で売却したため、2試合を開催したとしても経費を差し引くと収支はあまり無い。福岡ドームで試合を行えば1試合で1億円の収入になるが、ダイエーが台湾での公式戦開催に踏み切ったのは、将来的な経済波及効果への期待からである。台湾から福岡・北九州へ訪れる観光客は年間約25,000人で、これがホークス効果で増えれば10億円規模の地元還元へとつながると見積もったのである。実際に試合当日の球場周辺には「柳川・阿蘇・スペースワールドを巡り、夜は福岡ドームでホークス戦観戦」といった内容のパッケージツアーのパンフレットが並べられていたという。
一方、台湾側にも公式戦開催にメリットがあった。台湾プロ野球は中華職業棒球聯盟(CPBL)として1990年にスタートしたものの、1997年に起こった八百長問題、さらに後発の台湾大聯盟(TML)との対立でファン離れが進んでいた。そのため、人気回復策として日本のプロ野球チームを招聘しようと考えていたのである。もちろん台湾国籍を持つ王貞治の存在も大きな要因で、この試合にかける台湾側の期待は大きく、試合開始前のセレモニーには中華民国総統(当時)の陳水扁、馬英九が駆けつけるほどだった。
試合は松浦亜弥の始球式で始まり、第1戦は5-4でダイエーがサヨナラ勝ち、第2戦はオリックスが8-7で勝利した。
球団は翌年の2003年にも高雄市で対西武ライオンズ2連戦を予定していたが、西武との交渉がまとまらず開催には至らなかった[注釈 7]。
関連項目[編集]
- 天才てれびくんシリーズ - この番組名がリニューアルした年は必ずリーグ優勝・日本一を達成するというジンクスがある。
脚注[編集]
- 注釈
- ↑ 西鉄は南海同様、鉄道終着駅付近の本拠地立地ながら、九州唯一の球団であることや路面電車やバスも西鉄が押さえていたため、有利な条件を活かせた一方、近鉄は長期間ナイターのできなかった藤井寺球場で鉄道沿線の立地が生かせず、沿線外に出来た大阪ドーム移転後も南海と同様の状況が起きていた。
- ↑ 結果的にロッテが、日本シリーズで中日を倒し、ロッテが日本一になっている。
- ↑ 同年のセ・リーグは巨人が3年連続36回目のセ・リーグ優勝を果たしたシーズンであった。
- ↑ なお、対戦相手・ヤクルトの真中満監督も同年の新人監督でありながら日本シリーズに出場したため、2004年の西武 (伊東勤監督) 対中日 (落合博満監督) 以来となる新人監督対決となった。
- ↑ ちなみに工藤監督は選手としても1年目 (1982年・西武) で日本一を経験している。
- ↑ 同年のセ・リーグは広島東洋カープがリーグ連覇を達成した年であった。なお、同年の広島はDeNAに12勝13敗で負け越している。
- ↑ 高雄での開催が予定された2試合は、北九州市民球場で代替開催された。この時、仮に西武と合意に達していたとしても、同時期に台湾が重症急性呼吸器症候群(SARS)感染地域に指定されることとなったため、開催は不可能であった。
- 脚注
- ↑ “ソフトバンクが日本シリーズ進出 2年連続18度目の出場”. 中日新聞. (2018年10月21日) 2018年9月30日閲覧。
- ↑ “ソフトバンク、初の下克上日本一 広島を2―0で破る”. 中日新聞. (2018年11月3日) 2018年11月3日閲覧。