大阪近鉄バファローズ

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Baseball Batter.jpg 大阪近鉄バファローズ Baseball Pitcher.jpg
所属連盟パ・リーグ
運営会社株式会社大阪バファローズ
オーナー田代和 (解散時)
監督梨田昌孝 (解散時)
リーグ優勝回数4回(優勝年:1979 1980 1989 2001)
日本シリーズ優勝回数0回
永久欠番1

大阪近鉄バファローズ (おおさかきんてつバファローズ、英語:Osaka Kintetsu Buffaloes) は、かつて存在していた日本のプロ野球チーム。

概要[編集]

パシフィックリーグに所属していた。

大阪府をフランチャイズとし、当初は藤井寺市にあった藤井寺球場を本拠地にし、大阪市中央区にあった日生球場をナイターの準本拠地にしたが、集客低迷期は三重県へのフランチャイズ移転を検討したという。大阪市西区の大阪ドーム完成後は大阪ドームを本拠地としていた。

日本一は球団消滅まで遂に成し遂げられず、特に1989年日本シリーズは1958年の巨人、1986年の広島以来の3連勝後の4連敗を喫し、加藤哲郎の3連勝後の「巨人はロッテより弱い」発言が後年の語り草となった。

改軌よる名阪直通を成し遂げ、ビスタカーを生み出した近鉄社長の佐伯勇が大切にした事業という。理由は「プロ球団のオーナー」という身分がアメリカで一目置かれる存在だからであり、近鉄の公職を去っても、バファローズのオーナーは1989年の死去まで佐伯は終身手放さなかった。

なお、バファローズ創設前の1944年から1947年に「近畿日本グレートリンク」の球団名で近鉄は球団運営をしていたが、南海分離後に「南海ホークス」となった。

2004年には、西鉄身売り後の1972年〜1978年のライオンズ同様、ネーミングライツによる球団存続を図ったが、1972年当時と違い、経営難を1リーグ制再編の機と見た巨人等から反発を受け断念。後のオリックスへの合併に繋がる球団再編問題の端緒となった。結局、近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブが合併し、楽天が新球団を立ち上げることで、パリーグは6チームのままとなった。岩隈久志の様にオリックス移籍とされながら入団を拒否して楽天に移籍した選手もいたが、選手の意思が基本的に反映されないオリックス側が主力を分捕れるプロテクトを経て、オリックスと楽天の球団主導[注 1]の選手分配ドラフトが行われ、分配されずに残った近鉄の選手はオリックスに移籍した。

プロフィール[編集]

  • 会社名 - 株式会社大阪バファローズ
  • 球団名 - 大阪近鉄バファローズ
  • 親会社 - 近畿日本鉄道
  • 創設年度 - 1949年
  • 解散年度 - 2004年
  • リーグ優勝 - 4回
  • 日本一 - 0回

チーム名[編集]

チーム名は大阪近鉄バファローズであるが、たびたび 「バファローズ」 の誤記を見かける。これは1959年千葉茂監督が就任した際、千葉監督のニックネームが 「猛牛」 だったことから、当時のチーム名 「近鉄パールス」 から 「近鉄バッファローズ」 に改名することを提案。しかし、「長すぎる」 ことから2文字減らして 「近鉄バファロー」 という名前になった。その後1961年に千葉監督が退任するが、その際に 「今後は選手全員が猛牛にならなければならない」 という言葉から、「近鉄バファローズ」 という名前になったという経緯がある。通常よく使われる 「バッファロー」 と混同することもあり、「バッファローズ」 の誤記を見かけることがよくある。これが球団再編問題によりオリックス・ブルーウェーブと合併した後も 「バファローズ」 という名前が引き継がれ、今の 「オリックス・バファローズ」 になった。

ファンを公言する有名人[編集]

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  1. オリックスの選手にも分配ドラフトで本人の残留意思に反して楽天に分配された選手がいた。


日本野球機構統括球団(日本プロ野球球団)一覧
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セントラル 西日本パイレーツ | 松竹ロビンス
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斜体の球団は1リーグ時代から存在。