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王貞治

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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Baseball Pitcher.jpg 王 貞治 Baseball Batter.jpg
Sadaharu Oh
基本情報
国籍 台湾(中華民国)国旗.png 中華民国
出身地 日本国旗.png日本
東京府東京市本所区
(現:東京都墨田区
生年月日 1940年5月20日(84歳)
身長
体重
177cm cm
79kg kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月11日
最終出場 1980年10月20日
Wikipedia-logo.png 王貞治
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

王 貞治(おう さだはる、1940年5月20日 - )は、日本の元プロ野球選手、元指導者、現在は福岡ソフトバンクホークスの取締役会長。愛称である「世界の王」が呼ばれるようになったのは王の成績が尋常ではないからである。

経歴[編集]

中学まで[編集]

中華料理店を経営する中国人の父と日本人の母の間に生まれる。現在も国籍は中華民国である。本所中学校在学時に後の恩師の荒川博が高校生と見間違えるほどの体格だった。荒川は貞治に早稲田実業への進学を薦めたが、中国の寒村出身だった父は貞治を電気技師にさせ、故郷に貢献させる意向を持っており、それに沿って都立高校も受験したが不合格て、早実に進学した[注 1]

高校野球[編集]

早稲田実業では投手として活躍。
1957年春の選抜では紫紺の優勝旗の初の箱根越えに貢献。その年の夏の甲子園でノーヒットノーランを記録。

プロ野球選手[編集]

プロでは入団早々に投手から内野手への転向を言い渡された。
当初は三振が多く、「三振王」と野次られた。荒川博がコーチに就くと日本刀も併用しつつ、荒川の下で打撃フォーム改造に取り組み、一本足打法定着後は本塁打を量産した。
シーズン四球(158個)、シーズン敬遠(45回)、シーズン出塁率(.532)、シーズンOPS(1.293)、通算得点(1,967点)、通算塁打(5,862塁打)、通算打点(2,170打点)、通算四球(2,390個)、通算敬遠(427回)、通算出塁率(.446)、通算長打率(.634)、通算OPS(1.080)のNPB記録保持者。ウラディミール・バレンティン村上宗隆に次ぐNPB史上歴代3位のシーズン最多本塁打記録保持者(55号、NPBのアジア人としては村上に次ぐNPB史上歴代2位)。NPB最多記録となる本塁打王を15回、打点王を13回、最多出塁数(現在の最高出塁率)を12回を獲得、NPB最多記録となる最優秀選手を9回受賞している。セ・リーグ最多記録となるベストナインも18回受賞、またセ・リーグ初の最多出塁数を獲得、セ・リーグ初の一塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞するというとてつもない化け物であり、王貞治を超える者はとてもじゃないが想像がつかないのである。さらに、王は現時点で通算本塁打数868本の世界記録保持者。
ハンク・アーロンの記録超えに際し、初の国民栄誉賞を受賞。現在に至るまで日本国籍でない唯一の受賞者である。

監督[編集]

引退後、巨人の助監督を経て監督に就任。その後、ダイエーホークスの監督に就き、現在のホークス野球の基礎を築いた。

外部リンク[編集]

[編集]

  1. 早実には電気科、不合格の都立高校には野球部が無く、ある意味、将来への分岐点になった。