勝田清孝
勝田 清孝(かつた きよたか、昭和23年(1948年)8月29日 - 平成12年(2000年)11月30日)は、日本の京都府出身の元消防士。広域重要113号事件の容疑者であり、広域重要事件で3名、それ以前の事件で5名の合計8名を殺害した被告として死刑となった。ただし、殺人は自供しただけでも20件以上[1]、勝田は22名を殺害したとされており、これらは裏付けや立証が困難で起訴を断念されたとされている。このため、戦後最悪の大量殺人者とする説もある。
経歴[編集]
若い頃[編集]
昭和23年(1948年)8月29日、京都府に生まれる。両親は共働きであったために孤独であり、そのため近所の人のお手伝いをしたりしていた。この際に駄賃をもらったりして、金銭に対する執着を養ったという。
昭和40年(1965年)、友人と組んでバイクによる連続ひったくり事件を10件以上起こし、それにより大阪府和泉少年院に送致される。同時に高校は退学処分となった。昭和41年(1966年)、少年院を仮退院し、自動車部品工場に就職する。しかしここで同僚の財布が無くなる事件が発生し、それが少年院に入院した勝田の仕業であると疑われた。この窃盗自体の罪は晴れたが、同僚からいじめに遭うようになり退職する。その後も自らの少年院の経歴がいじめの原因になり、職に就いては長続きせずが続いた。
昭和45年(1970年)頃に1歳年下の女性と付き合い、双方の両親の反対を押し切って駆け落ちして結婚する。同時に奈良市に住居を構えた。昭和46年(1971年)6月に長男が誕生し、妻子ができたことをきっかけにしてトラック運転手として就職し、再スタートする。しかし昭和47年(1972年)1月に奈良で女性銀行員殺人事件が起こり、警察は少年院に入院の経歴がある勝田に容疑をかけて会社に事情聴取に訪れる。無実は立証されたが、このために少年院にいたという過去を隠していた勝田の過去が全会社員に知られてしまい、退職を余儀なくされる。
殺人の始まり[編集]
昭和47年(1972年)4月、定職に就かない勝田を心配した父親が自らのコネを利用して、勝田を相良郡中部消防組合に就職させる。しかし父親の縁故で採用されたため、同僚からの勝田を見る目は冷たかった。勝田は以前のように同僚からいじめられるのを恐れ、自らを認めてもらい仲間になりたい一心で、同僚を自らの奢りで恩を売って人間関係を作ろうとした。そのため同僚に奢る毎日が続き、そのためすぐに金銭が窮した。そのため昭和47年(1972年)9月13日、京都市東山区でホステスの女性宅に窃盗目的で侵入するが、女性に見つかって女性を性的に犯した後、絞殺した。これが最初の殺人事件だった。
昭和50年(1975年)7月6日、大阪府吹田市のクラブ経営者の女性のハンドバックを窃盗しようとしたが、女性に気付かれたため絞殺される。この際、死体を運んだ被害者の車であるフェアレディーZを証拠隠滅のために燃やした。
昭和51年(1976年)3月5日、愛知県名古屋市のホステスの女性を殺害する。この際に勝田は変質者の仕業に見せて警察の捜査を撹乱させるため、被害女性の陰部にススキを挿入した。このため、稀代の猟奇事件・「カマロ事件」(被害女性の愛車がカマロだったことから)として世間を揺るがすことになる。
昭和52年(1977年)6月30日、名古屋市南区の麻雀荘店の女性店員宅に空き巣に入り、現金4万円を盗もうとしたところ、帰宅した女性に見つかって絞殺した。同年の8月、名古屋市昭和区の美容指導員の女性が住むマンションに空き巣の下見で立ち寄ったところ、女性に不審がられたために殺害し、その死体をベッドと壁の隙間に隠したという。なお、この8月にテレビ朝日系の番組・「夫婦でドンピシャ」に出演し、賞金・賞品合わせて18万円を獲得した。そしてこの頃、勝田は車内に置かれていた猟銃を盗んだ。そしてその猟銃を使って12月13日に兵庫県神戸市の労働金庫職員の男性を射殺し、400万円の現金と小切手、合わせて900万円を強奪する。
昭和55年(1980年)7月31日、名古屋市のスーパーの男性店長を脅して金庫から576万円余りの現金と商品券合わせて580万円を奪い、抵抗した店長を射殺する。
このように連続殺人を犯しながら勝田に容疑がかからなかったのは、被害者に不倫や浮気などの複雑な人間関係が存在していたためであり、警察の疑いはそちらに向けられていたことがある。また、勝田と被害者との間に直接の関係が無かったことなどが大きい。勝田は殺人を犯して得た金で愛人を囲い、自動車を何台も買い替えるなど派手な生活をしていた。また、勝田が消防士としては優秀で救助活動では目覚しい活躍を見せていたことも、疑いが向けられなかった一因である。
逮捕[編集]
昭和55年(1980年)11月8日、勝田は逮捕される。しかし容疑は車上狙いであり、当時の警察は不覚にも勝田の連続殺人を見抜くことができていなかった。そのため、勝田は懲役10ヶ月、執行猶予3年を受けたのみであった。
しかしこれにより、勤務先の消防組合は懲戒免職処分となる。さらに愛人の関係も露見したこともあり、妻子も別居してしまった。これにより勝田の暴走がエスカレートしてゆく。
広域重要113号事件[編集]
昭和57年(1982年)10月27日、名古屋市千種区で警官を通報で呼び出したところを自動車で撥ねて重傷を負わせ、警官が所持していた拳銃を強奪した。重傷を負った警官はその後、車椅子での生活を余儀なくされたという。10月31日、浜松市のスーパーマーケットで拳銃による強盗事件を起こしたが失敗し、自動車を強奪して逃走する。そして盗難車で逃走中の11月1日、名神自動車道養老サービスエリアで車の持ち主である溶接工の男性を射殺する。さらにエリア内のガソリンスタンドに押し入り、店員の男性に拳銃で重傷を負わせたが、男性の抵抗にあって売り上げ金の強奪には失敗した。
警察庁は警察官の拳銃を使用した連続犯罪を「広域重要113号事件」に指定する。また、一命を取り留めたガソリンスタンド男性の証言もあり、犯人の特徴の割り出しを進めていった。
11月、勝田は京都府山科市のスーパーマーケットに押し入り、150万円を強奪した。
逮捕・裁判[編集]
昭和58年(1983年)1月31日、勝田は名古屋市の第1勧業銀行御器支店の店員男性の車に押し入って拳銃で脅して金を奪おうとしたが、男性に抵抗されて柔み合いとなり、それに気付いた周囲の人たちからも勝田は取り押さえられてしまい、御用となった。その後、警察の取調べにおいて広域重要113号事件の3人以外に5人を殺害したことを自供し、警察を驚愕させた。ただし裏付けが取れず立証できなかった犯罪もあり、それを合わせると勝田は22人を殺害したといわれている。このため、勝田は戦後最悪の大量殺人者とする説もある。
昭和61年(1986年)3月24日、名古屋地裁で死刑判決が下され、勝田は控訴する。昭和63年(1988年)2月19日、名古屋高裁において控訴が棄却され、勝田は上告する。平成6年(1994年)1月17日、最高裁において上告が棄却され、死刑が確定した。勝田は昭和47年(1972年)から昭和55年(1980年)までの5人の殺人、さらに広域重要113号事件の3人の殺人、2つの事件で死刑判決を受けており、1人の被告が2度の死刑判決を受けて確定した死刑囚となった。
最期[編集]
勝田は獄中において「冥海に潜みし日々」というタイトルで本を出版し、その印税を遺族への弁償金に充てている。また点字活動をボランティアで続けたりしたという。
平成12年(2000年)11月30日、名古屋拘置所において死刑が執行された。52歳没。
勝田が疑われなかった理由[編集]
逮捕されるまで10年以上の間、なぜ警察の捜査線上にすら浮かんでこなかったのか。それは勝田が死体に巧みな偽装工作を働いたこと、表向きは優秀で有能な消防士として功績も多かったこと、殺害した女性に特殊な人間関係があったことが挙げられる。
勝田が4人目に殺害した麻雀荘の従業員女性は、大手石油会社で管理職に就任していたエリートサラリーマンで妻子にも恵まれていて順風満帆な生活を送っていた男性Aと愛人関係にあった。Aは次第にこの愛人にのめり込み、給料だけでは愛人関係を保てなくなり会社の潤滑油を横流しする不正を行なってその金で女性にマンションを借りていたのだが、そのマンションで女性が殺されてしまう。Aが死体の第1発見者となるが、Aは愛人関係が表面化するのを恐れてすぐに警察に通報せず、1時間ほどが経過してから通報したという。そのためAが犯人であると警察には疑われた。状況的にもAには明らかに不利であり、事件から1年後にAは横流しの詐欺行為で別件逮捕される。しかしAには殺人の証拠が何一つ浮かばず、警察は面子のために焦り出して過酷な取調べを行ない、取調べを担当した刑事から「お前が犯人じゃなかったら、お前の前で首をつってやるわ!」と罵ったという。結局、Aは殺人で証拠は無かったので罪に問われることは無く、あくまで詐欺罪で懲役2年の実刑判決を受けて、1年4ヶ月服役した。ただし、潤滑油横流しについては会社と判決前に和解していたため、通常ではあり得ない重い判決である。このため、殺人がこの判決に影響したのではないかと考えられている。殺害事件から6年後、勝田の自供でAの無罪が明らかになり、愛知県警は世論に屈する形でAに謝罪した。
また3番目のカマロ事件の被害者の女性は弁護士Bと親密な関係にあり、そのため容疑者扱いされたBは弁護士を廃業することを余儀なくされた。
5番目の被害者女性と愛人関係にあった男性Cは大手化粧品販売会社社長令嬢と結婚し、そのため将来の社長候補とまで言われていたが、勝田の殺人で容疑者として疑われ、それにより愛人関係も暴露されたため、会社を退職し離婚することを余儀なくされたという。
このように被害者側に特殊な人間関係があったことが勝田を疑わせなかったのである。また、勝田のために彼らが不幸になったことも忘れてはいけない。
勝田関係の年表[編集]
- 1948年
- 8月29日 - 京都府に生まれる。
- 1965年 - バイクによる連続ひったくり事件を友人と共に起こして逮捕され、少年院送致となり、高校も退学処分となる。
- 1970年 - 女性と駆け落ちし入籍する。
- 1971年
- 6月 - 長男が生まれる。
- 1972年
- 1975年
- 7月6日 - 大阪府吹田市のクラブ経営者の女性を殺害する。
- 1976年
- 3月5日 - 名古屋市のホステスの女性を殺害(カマロ事件)。
- 1977年
- 1980年
- 1982年
- 1983年
- 1986年
- 3月24日 - 名古屋地裁で死刑判決が下される。
- 1988年
- 2月19日 - 名古屋高裁において控訴が棄却される。
- 1994年
- 1月17日 - 最高裁において上告が棄却され、死刑が確定する。
- 2000年
- 11月30日 - 名古屋拘置所において死刑が執行される。52歳没。
出典[編集]
- ↑ 11年間で22人を殺害した消防隊員・勝田清孝の知られざる素顔【大量殺人事件の系譜】 Amebaニュース
外部リンク[編集]
- 勝田清孝と来栖宥子の世界 - 来栖宥子のサイト、2015.12閉鎖。リンクはインターネットアーカイブ。
- 来栖宥子★午後のアダージォ - 来栖宥子のブログ。勝田に関する記事あり。
- 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』転載 - 来栖宥子 午後のアダージォ