日本神話

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日本神話
(Japanese mythology)
ジャンル 古事記日本書紀
著者 太安麻呂舎人親王
その他 712年720年頃に編纂?
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日本神話(にほんしんわ)とは、古事記や日本書紀に見られる日本創世に係る神話。

概要[編集]

人類がムラやクニから政府を成立させていく経過において、世界的にも「豪族」が領地を支配していく様子が見られる。日本は島国であり他国からの影響を受けにくく、「天皇制」を初めとする独自の文化を多く持っており、公用語としての日本語での育児・教育が国民性の統一をより強固なものとしている。日本の歴史を知る手がかりとしては、第40代・天武天皇から第43代・元明天皇の時世に渡って編纂された「古事記」(稗田阿礼、太安万侶)が日本初の歴史書といわれ、伝承や神話を中心にした初代・神武天皇の誕生から第33代・推古天皇までの事績が記されている。「日本書紀」もほぼ同時期に編纂されているが、こちらは天皇家の事績を中心に漢文体で書かれており、どちらかというと対外国的なものとなっている。

内容[編集]

イザナキとイザナミ[編集]

この世界が初めて天と地に分かれたとき、「高天原(たかまのはら)」に神々が現れた。ここでは国土がまだできておらず、「別天神(ことあまつかみ)」たちのほか、「伊邪那岐神(いざなきのかみ)」「伊邪那美神(いざなみのかみ)」の兄妹神まで「神代七代(かみよななよ)」と呼ばれる多くの神々が現れている。

伊邪那岐神と伊邪那美神は、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(人間世界)を作る命を受け、「天沼矛(あめのぬぼこ)」を使って「淤能碁呂島(おのごろじま)」を作り、ここで結婚した。そして、伊邪那岐の体の成り余ったところで伊邪那美の成り合わないところを挿しふさぎ「美斗能麻具波比(みとのまぐわい)」を行って「大八島国(おおやしまのくに)」を生んだ(この際、一度目は伊邪那美神から先に伊邪那岐神へ声を掛けたため、未完のままの「水蛭子(ひるこ)」と「淡島(あわしま)」が生まれている)。

その後いよいよ海神や風の神、木の神、山の神、野の神など八百万の神々を生んでいく。やがて火の神である「火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)」を生むときに陰部(ほと)を焼かれて大火傷を負っているが、その病床での嘔吐物や糞や尿からも神々が生まれている。伊邪那岐神と伊邪那美神の2神が生んだ島は14、神は35柱ある。

伊邪那美神が亡くなった(神避る・かむさる)のち、伊邪那岐神は「黄泉国(よみのくに)」へ行って連れ戻そうとしたが、伊邪那美神は腐り崩れて戻れない体であり、畏れて逃げた伊邪那岐神に対して伊邪那美神は「これから1日に1000人絞め殺そう」と言い、伊邪那岐は「では1日に1500の産屋を建てよう」と応じた。黄泉国から戻った伊邪那岐神が禊をして穢れを清めたときにも神々が生まれ、最後に「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」「月読命(つくよみのみこと)」「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」の三貴子が生まれた。天照大御神には高天原を、月読命は夜之食国(よるのおすくに、夜見国・よみのくに)を、建速須佐之男命は海原を治めるよう伝えた。

アマテラスとニニギノミコト[編集]

須佐之男は母・伊邪那美神の国である根之堅州国(黄泉国)へ行きたいと泣いてばかりで国が荒れていくので、伊邪那岐神は追放することとした。須佐之男は天照大御神に相談し、宇気比(誓約・うけい)により女の子を生んだことで一度は身の潔白を証明したが、乱暴が収まらずさらに激しくなったので天照大御神は「天石屋戸(あまのいわやと)」に引きこもり、世界は長い夜が続き悪神の声が満ち溢れあらゆる災いが起こった。「思金神(おもいかねのかみ)」の知恵によって、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」が胸乳(むなち)をさらけ出し衣装の紐を陰部まで押し下げて踊り、高天原中がどよめき八百万の神々が笑ったところ、天照大御神が「なぜ笑っているのか」と尋ねたのに対して天宇受売命は「あなた様にも勝る貴い神がおいでになります」と応え、鏡を差し出した。天照大御神が鏡を覗き込んだ際に「天手力男神(あめのたぢからおのかみ)」が手をとって引きずり出したので、世界は再び明るくなった。

今回のことで須佐之男命は全ての責めを負って追放された。出雲国の地に降りたところ、老夫(おきな)と老女(おみな)と童女(おとめ)が泣いているのを見つけた。「八俣大蛇(やまたのおろち)」が今年8人目の娘を食べに来ると聞いて、大蛇を退治する代わりに娘をもらうこととなった。無事、大蛇を酒に酔わせて退治した際、尾から「草那芸之大刀(くさなぎのたち)」が見つかり天照大御神に献上した。そして根之堅州国を正しく治めることになった。

須佐之男命の子孫である「大国主神(おおくにぬしかみ)、幼名は大穴牟遅神(おおなむぢかみ)」は、多くの兄弟(八十神・やそがみ)から疎んじられていたが、鰐を騙し川を渡ろうとして失敗した丸裸の兎が八十神に「海の潮を浴びて高い山で伏せよ」と教えられいっそう苦しんでいるところ、大国主神が治療法を教えて治したことで、美しいと評判の「八上比売(やがみひめ)」を得るでしょうと予言され事実そうなった。八十神は妬み怒り、焼いた大石や大木で挟んで大国主神を殺したが、母神と長老に蘇生され、根之堅州国へ向かった。そこで須佐之男命の娘と結ばれた。須佐之男命の試練も乗り越えて八十神を退けることもでき、出雲国の支配者となった。何人かの后も娶り、多くの神々の父となった。

天照大御神は天津神(あまつかみ)を葦原中国に遣わすが、大国主神ら葦原中国にいる国津神(くにつかみ)に懐柔されたかのように、高天原には戻ってこなくなった。天照大御神があらためて大国主神に国譲りを迫ると、子供の「八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)」と共に譲ることを決めた。天照大御神が誰に出雲を統治させるかを子に尋ね、その子の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)」を降ろすことになった。その通り道を国津神の「猿田毘古神(さるたびこのかみ)」が塞いでいたので、天宇受売命を遣わし、伊勢まで送って猿田毘古神に仕えさせた。そして邇邇芸命が地上に降りる際、天照大御神は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と「八咫鏡(やたのかがみ)」と草那芸之大刀の「三種の神器」を持たせた。

カムヤマトイワレビコノミコト[編集]

高千穂(宮崎県)に宮殿を建てた邇邇芸命は、笠沙岬で「木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)」に出会い結婚を申し込んだ。佐久夜の父は姉の「石長比売(いわながひめ)」と共に多くの品物を届けたが、邇邇芸命は石長比売が醜かったため送り返してしまった。このことで天津神の御子(天皇家)の寿命が神々よりも儚いものとなった。その後、佐久夜毘売は邇邇芸命とたった一夜だけの交わりで身籠ったので、邇邇芸命は国津神の子ではないかと疑った。佐久夜毘売は純潔を証明するため、戸のない八尋殿を作って産屋とし、火を放って出産に臨んだ。そして、無事に「火照命(ほでりのみこと)」と「火須勢理命(ほすせりのみこと)」と「火遠理命(ほおりのみこと)」が誕生した。

火照命は海幸彦、火遠理命は山幸彦とも言われ、あるとき弟の山幸彦が海幸彦と「お互いの道具を交換して使ってみたい」と頼んだところ、海幸彦はなかなか承知しなかったが最後に渋々釣り針を貸した。だが山幸彦は魚を一匹も釣れなかった上、大事な釣り針をなくしてしまった。山幸彦は「十拳剣(とつかのつるぎ)」を砕いて500本の釣り針を作り渡そうとしたが受け取ってもらえなかった。別の神より「綿津見神(わたつみのかみ)」(海神)に助けてもらうよう聞き、船で宮殿に行き桂の木に登って待っていると、海神の娘の「豊玉毘売命(とよたまびめのみこと)」に見初められ、しばらくそこに留まることとなった。また釣り針が赤鯛の喉に刺さっていることも判った。海神より、海幸彦に釣り針を返す際の注意を聞き、山幸彦はその注意を守って、海幸彦に代わりこの世界を統治することになった。

やがて豊玉毘売が山幸彦(火遠理命)の元を訪れ、身篭っているが天津神の御子を海原では生めないといい、産屋を作る間もないまま陣痛が始まった。豊玉毘売は「子を産むときには本来の姿に戻ってしまうので見ないで欲しい」と申し出たが、火遠理命が覗き見たところそこには八尋もある鰐が這い回っていた。豊玉毘売は恥ずかしく思い、生まれた「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」を預けて海原に帰ってしまった。その後、鵜葺草葺不合は乳母として訪れていた豊玉毘売の妹の「玉依毘売命(たまよりびめ)」を娶り、「五瀬命(いつせのみこと)」「稲氷命(いなひのみこと)」「御毛沼命(みけぬのみこと)」「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」をもうけた。この若御毛沼命が、初代・神武天皇となる「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)である。

若御毛沼命たちは「日向の高千穂宮(ひむかのたかちほのみや)」(南九州一帯)で育ったが、あるとき若御毛沼命が五瀬命に「東へ行って、日本国中を治める地を探しましょう」と相談した。そして一行は東へ向かい、豊国や竺紫、安岐や吉備などで数年を過ごし、「白肩津(しらかたのつ)」まで来たところでその地を支配していたものより攻撃され、五瀬命は重傷を負った。そこで「日神(ひのかみ)の御子が太陽に向かって戦ったので負けた。これからは太陽を背にして戦おう。」といって南から回り込むこととしたが、その途中で五瀬命は絶命した。その後、若御毛沼命たちは熊野から「八咫烏(やたがらす)」に導かれて大和へ向かい、最後まで抵抗した登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の残党との戦いを終えた。そして畝火の白橿原宮(しらかしはらのみや)で初代天皇として即位した

モモタロウ[編集]

桃太郎」も参照

吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、欠史八代の1人第7代・孝霊天皇の皇子で、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)ともいわれる。鬼ノ城(きのじょう)に住む温羅(うら)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)の3家来と倒した。この話が「桃太郎伝説」に形を変えて岡山県は「桃太郎発祥の地」といわれる。

ヤマトタケル[編集]

倭健命(やまとたけるのみこと)は、第12代・景行天皇の子で、諱は小碓命(おうすのみこと)。幼少の頃、双子の兄である大碓命(おおうすのみこと)が父の言うことを聞かなかったため、厠で手足を引き抜くほどに殺してしまった。父はあまりの猛々しさを恐れ、熊曾建(くまそたける)の討伐を命じた。熊曾建を女装して討ったあと倭健命を名乗る。その後も出雲健(いずもたける)の刀を入れ替えだまし討ちし、大和に戻ってきた。今度は父に東国遠征を命じられ、疎まれていることを伊勢神宮で叔母に訴えると草那芸剣を授けられた。相武国(さがみのくに)で火計にあった倭健命は草那芸剣で無事に難を逃れたが、走水海(はしりみずのうみ、浦賀水道付近)を船で渡る際には、海峡の神を鎮めるために妻の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が命を落とした。その後、蝦夷、足柄、甲斐、信濃の山河の神々を平定した。その帰路、伊勢の能煩野(三重県鈴鹿北部)で衰弱して亡くなった。

解説[編集]

これら神話から、当時の生活に関する考え方を読み取ることができる。女性から男性を誘うことを良しとせず、また家督は末子が相続する風習が見られ、天津神と国津神との抗争を中央政府対地方勢力または大陸(中国・朝鮮)対日本列島と捕らえることもある。

関連項目[編集]