漢委奴国王印

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漢委奴国王印(かんのわのなこくおういん)は江戸時代の1784年(天明四年)に筑前国那珂郡志賀島(現福岡県福岡市東区)で出土した「漢委奴国王」の印文が刻まれた弥生時代の純金の印である。

形状寸法[編集]

方形であり、方平均2.347cm、高さ0.887cm,総高は2.236cm、重さは108.729gである。印文は「漢委奴国王」の五字を小篆の書体で三行にわけて薬研彫り形に陰刻されている。

文化財指定[編集]

  • 重文指定年月日:1931年12月14日
  • 国宝指定年月日:1954年3月20日

発見者[編集]

金印発見日[編集]

  • 1784年(天明4年)2月23日
  • 甚兵衛口上書日付 同年3月1日
  • 発見場所 筑前国那珂郡志賀島叶の崎

口上書[編集]

掘り出したのは百姓甚兵衛説と甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人,秀治発見説の三説がある。甚兵衛の口上書には、私(甚兵衛)の所有地、叶の崎の、田の境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出て来て、そのうち2人持ちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取りのぞくと、石の間に光るものがあり、取り上げて水で洗ったところ、金の印判のようなものでした。見たこともないようなものでした。甚兵衛の兄喜兵衛は元奉公先の主人福岡の米屋才蔵に見てもらった。甚兵衛は大切な物だと言われたので手元に置いていた。3月15日、庄屋武蔵から役所に提出するように言われ、甚兵衛は出土経緯を語った。3月16日、金印と村役の署名を添えた「口上書」を郡役所に提出したと書かれている。黒田藩の家老達は金印を甚兵衛より白銀5枚で買い取り、藩の宝物庫に保管した。

「天明四年 志賀島村百姓甚兵衛金印堀出候付口上書」
那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上る口上之覚
一、私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候に付、先月廿三日右之溝形を仕直し可申迚、岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、弐人持程之石有之、かな手子にて堀り除け申候処、石之間に光り候物有之に付、取上水にてすすぎ上げ、見申候処、金之印判之様成物にて御座候、私共見申たる儀も、無御座品に御座候間、私兄喜兵衛、以前奉公仕居申候福岡町家衆之方へ持ち参り、喜兵衛より見せ申候へば、大切成品之由被申候に付、其儘直し置候処、昨十五日、庄屋殿より右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何れ宜敷被仰付可被為下候、奉願上候、以上 志賀嶋村百生 甚兵衛(印)
天明四年三月十六日
津田源次郎様
御役所
右甚兵衛申上候通、少も相違無御座候、右体之品堀出候はば 不差置、速に可申出儀に御座候処うかと奉存、市中風説も御座候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御座奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上

発見の経緯を述べた口上書から甚兵衛が発見者とされてきたが、その後の研究により、田地の所有者は甚兵衛であるが、金印の発見者は小作人の秀治と喜平の二人であるとの説が登場した。大谷光男氏によれば、博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)に「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」と記され、金印の発見者は甚兵衛ではなく、農民の秀治と喜平が掘り出したとの一文が書かれていた。

さらに志賀島の阿曇家所蔵『万暦家内年鑑』(志賀神社)には「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治田を墾(ひらき)し大石ノ下ヨリ金印を掘出 方七歩八厘 高三歩 漢委奴国王」とあり、金印の発見者は秀治とされている。

真贋論争[編集]

江戸時代の国学者松浦道輔は「漢倭奴国王金印偽作辨」を表し、贋作説を唱えた。論点は①印文の最後に印・爾・章などがない、②印の多くは鋳物であるが金印は鋳物ではない、③漢が下賜するのにわざわざ「漢」の文字を入れるのは通例に反する、④神武紀元にあてはめると垂仁86年になり仲哀紀にみえる伊都県主はまだいないはずである[1]

松浦道輔の贋作説には次の反論がなされている。①三宅米吉は、蛮夷印には爾・章は不要であるとした。漢代の封泥に用いられた印は「蛮夷里長」「漢夷邑長」など印・爾がないものがある。②鉄製の印は鋳物であるが、金印は鋳物では作られないのが通例である。③漢がつく印には多数の実例がある。薬研彫は「広陵王爾」(58年)の実例がある。④神武紀元にあてはめて論じるのは『記紀』の記載をそのまま歴史的事実として判断することになるため、問題にならない反論である[1]

NPO工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴は古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘している。金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度から「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法で作られている。「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されている。前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているが、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があり、印面に対する文字の部分の面積が他の印と比べて突出して大きいから、江戸時代の印ではないかとする。

明治大学文学部の石川日出志教授は志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっており、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点など、中国の後漢初期の文字の特徴があるとする。蛇形をした「つまみ」は、中国や周辺の各地で発見された同様の形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとする。金印に含まれる金の純度は90%以上であることは、古代中国の印とほぼ同じであると指摘する。「江戸時代に金の純度をまねて作ることはできない」と判断している[2]

金属組成[編集]

金印の金属組成は、側面の蛍光X線分析により金95.1%・銀5%・銅0.5%と測定されている[3]滇王之印は金95%に銀・銅5%の組成である[4]

注・参考文献[編集]

  1. a b 直木考次郎(2008)『邪馬台国卑弥呼吉川弘文館
  2. 石川日出志(2015)「金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-」古代学研究所紀要 (23), pp.99-110
  3. 本田光子・井上充・坂田浩(1990)「金印その他の蛍光X線分析」『研究報告』No14,福岡市立歴史資料館
  4. 呉朴(1959)「我村"滇王之印"的看法」『文物』1959-7