益田市

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益田市(ますだし)とは、島根県西部に存在するである。

概要[編集]

益田市は日本海に面する北を除く三方は山に囲まれているが、中央を北に流れる高津川とその東の益田川の河口近くには吉田・横田など島根県下でも屈指で、石見地区では最大級の複合デルタが開けた平野部で肥沃な水田地帯となっている。島根県西部の人口集積地の「石見三田」の一つ[注 1]

県西部(石西)の中心都市として山口県と結ばれており、平成5年(1993年)には市内中心部に石見空港が開港し、この空港を核としたリフレッシュリゾート構想により周辺の万葉公園、蟠龍湖県立自然公園、三里ヶ浜海岸などの整備が行なわれ、また大型工業団地の造成による企業誘致なども活発に行なわれている。益田市郊外では国営総合農地開発事業として酪農を中心に葡萄野菜煙草カキなどの栽培も行なわれている。

歴史ある市だけに観光地として見どころも多く、益田城跡や雪舟庭園で知られる万福寺医光寺などの古刹をはじめ文化財も多い。また日本海沿岸や蟠竜湖など自然の景勝地としても恵まれ、高津川の上流はの名所として知られ、萩市津和野町、秋芳洞、青海島などの観光地の中継地となっている。市の伝統芸能には益田糸操り人形のほか、石見神楽、高津川の船頭により江戸時代中期から歌い始められたと伝わる横田節などもある。

平成3年(1991年)からは、雪舟ゆかりの地として中国寧波市と姉妹提携して交流が行なわれている。

隣接自治体[編集]

益田市に隣接する市町村
日本海 浜田市
萩市 益田市 広島県
北広島町
鹿足郡
津和野町
鹿足郡
吉賀町
山口県
岩国市
安芸太田町
廿日市市

歴史[編集]

肥沃な平野に所在する益田の歴史は古く、古来から要地として重要視され、古代より条里制の美田があり、当時の古墳なども多く伝わっている。

鎌倉幕府が創始された建久3年(1192年)からは益田兼高益田城(七尾城)を築城して以来、およそ400年にわたって益田氏の支配下に置かれ、その統治の下で石見の中心地として繁栄を遂げた。戦国時代に入ると大内氏尼子氏毛利氏の下で熾烈な争いを生き抜き、益田氏の第20代当主である益田元祥の時代に毛利輝元に仕えていたが、関ヶ原の戦いで輝元が西軍の総帥になってしまったために戦後に長州藩に大幅減封移封されたため、元祥も輝元に従って須佐に移り、益田城は廃城となった。なお、室町時代の著名な画家である雪舟永正3年(1506年)に87歳で没したのは、この益田である。

江戸時代になってから益田は浜田藩津和野藩の両藩に分属することになったため、その繁栄がすっかり衰えてしまった。とはいえ山陰道の要衝という地の利はあったので、六斎市による市場の発展などから商工業都市としての基礎を身に着けてゆく。特産物として現在も名高い酒や醤油イグサなどの生産はこの頃から始められたという。

1912年に現在の益高の起源の女子技芸学校、1921年には現在の翔陽高の起源の農林学校が開校し、1923年には鉄道の石見益田駅が、商業地から西寄りの吉田地区に開業した。

昭和16年(1941年)に美濃郡益田町高津町吉田町の3町が合併して石見町となり、昭和18年(1943年)に益田町と改められる。昭和22年(1947年)には島根大学農学部の源流の島根県立農林専門学校が益田に開学[注 2]
昭和27年(1952年8月に益田町と美濃郡安田村北仙道村豊川村豊田村高城村小野村中西村の7村が合併して益田市として市制施行する。昭和30年(1955年)に美濃郡鎌手村種村真砂村二条村美濃村の5村を編入した。

平成16年(2004年11月1日、美濃郡美都町匹見町を編入。これにより美濃郡は消滅した。

益田市の主要施設[編集]

益田市の特産品[編集]

益田市の年中行事[編集]

人口・面積[編集]

  • 人口は5万1523人[1]
  • 面積は300.43平方キロメートル[1]

教育[編集]

1990年代に、萩女子短期大学運営の学校法人萩学園による四年制大学設置構想があったが、市長が落選したため、ボツとなった。

高等学校

県境にあるため、同規模の市より私立高校が多い。

専修学校
  • 島根県立石見高等看護学院

脚注[編集]

  1. 他は大田浜田
  2. 1951年の学制改革時に松江市に移転。
出典
  1. a b 平成9年度版『全国市町村要覧』

外部リンク[編集]


市部 松江市 / 浜田市 / 出雲市 / 益田市 / 大田市 / 安来市 / 江津市 / 雲南市
仁多郡 奥出雲町
飯石郡 飯南町
邑智郡 川本町 / 美郷町 / 邑南町
鹿足郡 津和野町 / 吉賀町
隠岐郡 海士町 / 西ノ島町 / 知夫村 / 隠岐の島町