大唐帝国
大唐帝国(だいとうていこく)とは、618年から907年まで中国を支配した王朝である。唐王朝は漢民族政権ではなく、鮮卑族の遊牧民の政権である。当時としては先進的な文化や政治の仕組みを創り出し、その影響を受けて朝鮮や日本では、唐の律令制度や仏教文化を取り入れた国づくりが進んだ。
歴史[編集]
建国[編集]
唐の開祖である高祖・李淵は隋の皇族の縁戚に当たり、文帝楊堅や煬帝からは重用されていた。隋が煬帝の失政により中国全土で反乱が勃発し、煬帝が江南に行幸すると、李淵は挙兵して隋の首都・長安を落として煬帝を上皇とし、その孫にあたる楊侑(恭帝侑)を新たな皇帝とした。618年に煬帝が部下の反乱によって殺害されると、李淵は楊侑から禅譲を受けて唐を建国した。
しかし、この時点で中国各地には隋の支配から自立した各地の群雄が割拠しており、唐はあくまでそれら群雄の中の一勢力に過ぎなかった。李淵は李世民ら優秀な息子や部下の活躍もあってそれらの群雄を制し、628年までに中国の再統一を成し遂げた。
ただし、李淵自体は626年、李世民による後継者問題から退位に追い込まれており、第2代皇帝には李世民が太宗として即位した。
全盛期と女帝の登場[編集]
太宗は中国全土を統一すると、北に割拠していた突厥を攻めてこれを服従させる。さらに文化や政治の改革も進めて後世の模範とされる貞観の治と称される政治改革を成し遂げた。唐は史上空前の大帝国となり、1度目の全盛期を迎えたのである。
だが、太宗も晩年になると自らが犯した後継者問題を再び引き起こし、また朝鮮半島の遠征にも失敗するなど、失政が目立つようになった。649年に太宗が崩御すると跡を継いだのは太宗の息子の中でも暗愚で知られていた高宗であり、この高宗の皇后にのし上がったのが則天武后であった。則天武后は夫の高宗を傀儡として事実上の最高権力者にのし上がると、前代からの功臣を次々と粛清して自らの権力を固めてゆく。逆らう者は自身の息子すら許さず密告を奨励し、683年に高宗が崩御すると、自らが産んだ息子でも暗愚だった中宗を擁立した。だが、中宗が自らの掣肘を脱して自立しようとしたので、則天武后はすぐにこれを廃して、新たな皇帝として中宗の弟の睿宗を擁立。自らは皇帝の実母としてなおも政治権力を握り続けた。
そして690年、則天武后は睿宗を廃して自ら皇帝として即位した。これが中国史上で唯一とも言われる女帝の誕生であり、これにより唐は一時的に中断し、武周王朝が成立した。
しかしさすがの則天武后も寄る年波には勝てず、705年に家臣の勧めもあって中宗に皇位を譲って退位。これにより武周は1代で消滅し、再度唐が復興した。則天武后は同年に崩御した。
玄宗の登場と安史の乱[編集]
則天武后の死後、復位した中宗は外戚と共謀した韋后に殺され、韋后は武周復活を目指して、混乱をもたらした。その中で台頭したのが睿宗の3男・玄宗であった。玄宗は外戚らを一掃すると父・睿宗を復位させたが、やがて皇位を譲られて即位する。
玄宗は太宗以降に乱れた唐を再興するため、熱心な政治改革に取り組んだ。この政治改革は開元の治と称されて唐は再び全盛期を迎えた。しかし、玄宗は在位の後半に差し掛かった頃から息子の妃だった楊貴妃を寵愛して次第に国政を顧みなくなった。同時期に辺境防衛のために置かれていた節度使が力を付け始め、その中でも強力だった安禄山が楊貴妃の従兄弟である楊国忠と政争を引き起こし、その過程で遂に中央政府に対して反乱を起こした。いわゆる安史の乱である。
この反乱を唐軍は鎮圧することができず、逆に首都の長安を落とされて玄宗や皇族は蜀に避難することを余儀なくされた。安禄山は長安に居座ると皇帝を称して自立したが、間もなく安禄山軍の内部で内訌が起こり、その間に玄宗の後継者である粛宗を中心にして体制を立て直した唐軍の反攻もあって安史の乱は8年がかりでようやく平定されることになった。
衰退と相次ぐ反乱[編集]
安史の乱は何とか鎮圧した唐であったが、これにより中央政府の統制は著しく弱まり、律令制度は機能を失ってしまう。そして、辺境を防衛するために派遣されていた節度使が中央政府の弱体化を見て次第に自立する傾向を見せ始め、彼らは強大な軍権を背景にしてやがて政治まで行なうようになり、唐から自立した群雄のような立場になってしまった。
このような事態に歴代皇帝も様々な国政改革に着手して皇帝権力の強化、中央政府の再建を行なおうとしたが、皇帝が節度使に対抗するために用いた宦官がかえって権勢を強めるようになり、中央政府は政治が腐敗するようになった。皇帝の中には有能な人物もいたが、そのような皇帝は宦官に殺されたりして皇帝そのものが傀儡になっていったのである。
このような政治腐敗の状況の中で社会不安が増大し、民衆や兵士の不満が蓄積されていくようになる。地方では反乱が相次ぎ、その中でも最大の反乱となったのが874年に発生した黄巣の乱であった。黄巣の反乱軍は決して強いわけではなかったが、腐敗しきった唐軍では対抗しきれず、また当時の皇帝・僖宗が暗愚だったために中央政府軍の統制が取れず、黄巣は880年に唐の首都・長安を落として僖宗は蜀に亡命した。しかし黄巣軍の大半が政治経験の無い農民出身者で、彼らは無闇に略奪や殺人を繰り返して人心を失い、そのような状況を見た黄巣の部下であった朱全忠が唐に寝返る。同時期に節度使の李克用も黄巣に対して大反攻を開始すると、黄巣はたまらず長安から逃げ出した。その後も黄巣は反乱を続けたものの、以前のような勢いは無くなり、最終的に884年に黄巣は李克用により討たれた。
だが、皇帝が首都を失って蜀に亡命したという事実は唐の権威を失墜させるに十分な出来事であった。唐は長安に復帰したものの、その支配権が及ぶ範囲は長安周辺のみとなり、中国各地には節度使の政権が割拠する群雄割拠の状態となる。皇帝は実力者の傀儡として利用される立場になり、その中でも朱全忠と李克用が相争った結果、朱全忠が僖宗の弟である昭宗を傀儡にして唐王朝を牛耳るようになった。
朱全忠はまず、宦官を皆殺しにして皇帝から手足を奪った。さらに首都を長安から洛陽に遷して、自らの地盤を強化した。
滅亡[編集]
第23代皇帝・哀帝は904年に父の昭宗が朱全忠により殺害されると、皇帝として擁立された。しかし哀帝は完全な傀儡であり、朱全忠はこの皇帝を大義名分にして唐王朝で生き残っていた貴族を大虐殺し、唐の貴族制度を消滅させる。合わせて朱全忠は哀帝の兄弟を偽の宴会に呼び寄せて全員殺害し、邪魔者を無くした。こうして禅譲への道筋をつけた朱全忠は907年、遂に哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、こうして23代289年続いた唐王朝は完全に滅亡した。ただし、既に唐王朝は全国政権で無くなっていたので、朱全忠が新たに建国した後梁が受け継いだのは現在の華北南部に過ぎず、あくまで中国大陸における大勢力のひとつにすぎない王朝でしかなかった。
なお、908年に哀帝は後難を恐れた朱全忠によって殺害され、唐の皇統は断絶した。
大唐帝国の皇帝と元号[編集]
皇帝 | 名 | 統治年数 | 元号 |
---|---|---|---|
高祖 | 李淵 | 618年-626年 | 武徳 618年-626年 |
太宗 | 李世民 | 626年-649年 | 貞観 627年-649年 |
高宗 | 李治 | 650年-683年 | 永徽 650年-655年 顕慶 656年-661年 |
中宗 | 李顕 | 684年(705年-710年に重祚) | 嗣聖 684年 |
睿宗 | 李旦 | 684年-690年 (710年-712年に重祚) |
文明 684年 |
武周(690年 - 705年)唐の中断 | |||
則天大聖皇帝 | 武曌 | 天授 690年 如意 692年 | |
唐の復興 | |||
中宗(重祚) | 李顕 | 705年-710年 | 神龍 705年-707年 |
殤帝 | 李重茂 | 710年 | 唐隆 710年 |
睿宗(重祚) | 李旦 | 710年-712年 | 景雲 710年-711年 |
玄宗 | 李隆基 | 712年-756年 | 先天 712年-713年 |
粛宗 | 李亨 | 756年-762年 | 至徳 756年-758年 |
代宗 | 李豫 | 762年-779年 | 宝応 762年-763年 |
徳宗 | 李适 | 780年-805年 | 建中 780年-783年 |
順宗 | 李誦 | 805年 | 永貞 805年 |
憲宗 | 李純 | 806年-820年 | 元和 806年-820年 |
穆宗 | 李恒 | 821年-824年 | 長慶 821年-824年 |
敬宗 | 李湛 | 825年-826年 | 宝暦 824年-826年 |
文宗 | 李昂 | 826年-840年 | 宝暦 826年 |
武宗 | 李瀍 | 840年-846年 | 会昌 841年-846年 |
宣宗 | 李忱 | 846年-859年 | 大中 847年-859年 |
懿宗 | 李漼 | 859年-873年 | 大中 859年 |
僖宗 | 李儇 | 873年-888年 | 咸通 873年-874年 |
昭宗 | 李敏 | 888年-904年 | 龍紀 889年 大順 890年-891年 |
(徳王李裕) | 李裕 | 900年-901年 | 光化 898年-901年 |
哀帝 | 李柷 | 904年-907年 | 天祐 904年-907年 |