安禄山
安 禄山(あん ろくざん、705年 - 757年[1][2])は、唐を揺るがした安史の乱を引き起こした指導者。燕の初代皇帝(在位:756年1月 - 757年[1])。
生涯[編集]
父はソグド系突厥の武将だった安延偃[1]。母親も突厥の出身[2]。本名は軋(阿)犖山(あつらくさん)といい、これはソグド語で「光」を意味するが、後に安禄山と改名した[2]。最初は商人であり、6ヶ国語に通じる堪能な語学の才能を持っていたが、節度使の幕僚になって武人に転身[2]。さらに中央の官僚に賄賂を贈って昇進を重ねた。玄宗の宰相・李林甫は高官が節度使となって辺境で勢力を蓄えることを恐れており、そのため異民族や身分の低い者を積極的に登用していたため、安禄山も742年にその政策により平盧節度使となった[2]。
安禄山はかなり太った巨漢で、唐の皇帝・玄宗からその膝まで過ぎるほど垂れた腹の中には何があるのか尋ねられた際、「赤心のみ」と答えたと伝わる[1]。玄宗の歓心を買うためにその寵妃である楊貴妃の義児となり[1]、玄宗からも信任されて751年に河東・平盧・范陽の3節度使を兼任することになった[2]。しかし李林甫に代わって楊一族の楊国忠が宰相として国政を壟断するに及んで対立[2]。754年に玄宗は安禄山を宰相に任用しようとしたが楊国忠の反対で実現せずに及んでその対立は頂点に達し、755年11月に遂に楊一族を除くと称して20万の大軍を率いて挙兵した[1][2]。これが安史の乱の始まりであり、唐軍を破った安禄山は756年1月に皇帝を自称して国号を「大燕」とした[1][2]。しかし間もなく眼病により失明し、さらに他の病気を患って性格が凶暴化した[1]。安禄山自身は肥満体の酒飲みであったが性格や人柄は良く多くの人に慕われていたのだが、この病気を機に凶暴化したことで人心を急速に失いだした[2]。
さらに段夫人が産んだ安慶恩を偏愛したため、次男で異母兄の安慶緒に廃されたり、将来への不安を抱かせてしまい、遂に殺害された[3][2]。享年53。
以後も3代にわたって安史の乱は継続されることになる。なお、安史とは安禄山の「安」とその部下の史思明の「史」を取って名づけられたものである。