黄巣
黄 巣(こう そう、? - 884年[1])は、唐末期の黄巣の乱における反乱軍の指導者。一時的に唐の首都・長安を占領して斉の皇帝(在位:881年 - 884年)を称したが、唐の反撃にあって長安を追われ、最後は自殺を遂げた。
生涯[編集]
黄巣は現在の山東省の出身で、科挙を数度受けて全て失敗した[2]。当時は高価な専売塩のため庶民は生活苦にあえいでいたが、黄巣は塩の密売商人となり私塩で富を成した[1][2]。任侠に富む人物で人望もあり、不満分子や無頼漢を養い[2]、875年に唐の支配に苦しむ農民の抵抗が激しさを増すと黄巣と同じ私塩の密売商人である王仙芝が反乱を起こすとこれに呼応した[1]。これが黄巣の乱の始まりである。
黄巣は河南・山東方面で勢力を強大化させ[2]、878年に王仙芝が死ぬとその軍勢を吸収し、880年には長安を奪って金の馬車で入城し、翌年に自ら皇位に即位して国号を「大斉」とした[1][2]。しかしこの政権は長安周辺を基盤とするだけの弱小政権であり経済的安定を欠いた上、元々塩の密売商人と反乱軍の百姓などの集まりに過ぎない黄巣軍は国政など執れるはずもなく、しかも無闇に放火や殺人、徴発や略奪、そして強姦などを繰り返したので人心を離反させた[1]。長安入城時に唐の高官を全て殺戮していたのも、人材を得られなかった一因であった。
現在の四川省に逃れた唐王朝は各地の節度使に黄巣討伐を命じたため、黄巣はその中でも強力な李克用の軍勢に敗退し、883年に長安を放棄して[2]勢力の再建を図った。しかし有力武将の朱全忠が唐に帰順して節度使に任命されるなど最早勢力再建は不可能な状態であり、884年に黄巣は甥の林言に自らの首を討たせてあえない最期を遂げた[1][2]。
この黄巣の乱は唐の衰退を決定的なものにし、以後皇帝権力は完全に名目上のものとなり、各地の節度使がそれぞれ自立して覇権を争う群雄割拠の時代に突入してゆくことになる。また唐は黄巣の死から23年後、皮肉にもかつての黄巣の部下であった朱全忠により簒奪されて滅ぶことになる。