韋皇后 (唐中宗)
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韋皇后(いこうごう、? - 710年[1])は、唐の第4代・第6代皇帝である中宗の皇后。
生涯[編集]
父は予州刺史[1]の韋玄貞[2]。中宗が皇太子の時代に皇太子妃となり、683年に中宗が即位すると皇后になった[1]。しかし即位54日で中宗が則天武后により廃され幽閉された際、韋皇后も皇后位を廃されて流罪にされた[1]。この際、気弱な中宗を内助の功で支え[1]、則天武后から勅使を送られた際に自殺させられることを恐れた中宗を懸命に励まし、中宗からもし復位したら何でも願いをかなえるとまで約束されたという[3]。
705年に則天武后から譲位されて中宗が復位すると韋氏も皇后に返り咲き、同年のうちに則天武后が崩御すると夫を傀儡にして自らが政権を握り専横を繰り広げた[1]。韋皇后は中宗との間に生まれた娘・安楽公主や則天武后の甥・武三思らで自派を形成した[1]。武三思と密通していたとも伝わる[4]。しかし韋皇后には中宗との間に息子が無く、中宗が崩御して皇太子の李重俊が即位することを恐れて李重俊に圧力をかけ、追い詰められた李重俊は蜂起して武三思を殺害したが李重俊も707年に殺された[4]。こうして帝権を凌ぐ勢威を手に入れた韋皇后と安楽公主であったが、さすがに皇太子を殺害したことは中宗との間に対立を招き、710年6月に遂に韋皇后らは中宗をも毒殺してしまう[1][4]。後継者には自らの子では無い中宗の4男・李重茂を擁立したが、この毒殺に不満を抱いた中宗の甥・李隆基のクーデターに遭い、殺害された(武韋の禍)[1][5]。