睿宗 (唐)
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睿宗(えいそう、662年 - 716年[1])は、唐の第5代・第7代皇帝(在位:684年 - 690年[1]。710年 - 712年[1])。姓名は李 旦(り たん)[2]、後に李 輪(り りん)[2]。
生涯[編集]
第3代皇帝・高宗の8男[1]。母は則天武后[1]。684年に同母兄の中宗が則天武后と対立して廃されると、その後釜として擁立されたが睿宗は別殿に移された上に政治的な権限は全く与えられず、関与することも許されなかった[1][2]。690年に則天武后が帝位につくと睿宗は廃されて皇子に格下げされる[1]。後に中宗が皇太子になるに及んで相王の王号を与えられた[1]。
則天武后が崩御し、中宗が復位すると今度は韋皇后による専横が始まる[1]。710年に韋皇后が中宗を毒殺すると睿宗も命を狙われるようになり[3]、睿宗の3男・李隆基によりクーデターが起こされて韋皇后らは殺され、李隆基の手により睿宗は復位を遂げた[1][3]。しかし元より実権は睿宗に無く、また本人もそれほど積極的ではなかったようで彼の時代には則天武后の娘、すなわち睿宗の妹である太平公主による専横が行なわれた。その太平公主と李隆基との間で対立が深まる中、睿宗は何ら有効な手段を打たずに712年8月に皇太子の李隆基に譲位して上皇となった[4]。復位してから在位2年での譲位に関しての理由は星の動きに不吉なものが認められてその責任をとったとある(『資治通監』)。
716年に崩御。享年55。
父や兄の中宗に似て凡庸で主体性の無い従順な人物であったと伝わっている[4]。