哀帝 (唐)
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哀帝(あいてい、892年 - 908年[1])は、唐の第23代皇帝(在位:904年 - 907年[1])。姓名は李 祝(り しゅく)、李 祚(り そ)[1]。唐の最後の皇帝である。彼の代で唐が滅亡しているため子孫から廟号をもらえなかったため、歴代皇帝の中で「宗」とは呼ばれない。一般的に哀帝と言われるが、昭宣帝(しょうせんてい)とも呼ばれている。
生涯[編集]
904年に父帝が朱全忠により殺害されると、その後釜として擁立された[1]。しかし即位時で13歳という幼児であり、これは朱全忠が自分が皇帝になるために禅譲する形式を整えるためであったという[1]。
905年2月、朱全忠によって徳王李裕・棣王李祤・虔王李禊・沂王李禋・遂王李禕・景王李祕・祁王李祺・雅王李禛・琼王李祥ら兄弟全員が社日の宴会と称されて招かれた席で皆殺しにされ、哀帝は孤立した(九曲池の変)。さらに6月、裴枢・独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら唐の貴族で実力者らが白馬駅で皆殺しにされ、その遺体は黄河に投げ込まれた(白馬の禍)。
907年2月、哀帝は百官を率いて朱全忠がいる元帥府に赴き、朱全忠に禅譲を進めた。そして何度か形式的な拒否があった後の3月、哀帝は朱全忠に皇位を禅譲して退位となり、ここに唐は滅亡し[1]、後梁が新たに建国された。しかし後梁は中国全土を支配下に置くことはできず、各地に節度使が皇帝・王として乱立し、五代十国時代の乱世が始まることになった。
退位した李祝(李祚から改名)は太祖となった朱全忠から済陰王の王号を与えられて山東に移ったが、908年に太祖により殺害された[1]。享年17。