粛宗 (唐)
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粛宗(しゅくそう、711年 - 762年[1])は、唐の第10代皇帝(在位:756年 - 762年[1])。名を李嗣昇(りししょう)、李浚(りしゅん)、李璵、李紹、李亨(りこう)と改名している[1]。
生涯[編集]
第9代皇帝・玄宗の3男[1]。7歳の時に兄の李瑛に代わって皇太子になる[1]。安史の乱の際は父帝に従って現在の四川省に向かうが、その途上で父帝と別れて皇帝に即位し、玄宗は上皇に棚上げとなった[1]。
即位後は安史の乱を鎮圧するため、ウイグルや西域諸国の援軍を要請する[1]。反乱軍の燕側も安禄山が息子の安慶緒に殺され、部下の史思明がそれにより粛宗に対して帰順するなど結束に乱れが出始めた。粛宗は史思明の帰順を受け入れたが、後に対立したため史思明は再度離反し、安慶緒を殺して自ら燕の皇帝になった[1]。粛宗はこのような燕の乱れを見て皇太子の李豫を天下兵馬元帥に任命して洛陽や首都の長安を奪回させた[1]。
粛宗は国政を再建しようと公正な政治を期したが、宦官の李輔国や張皇后の権勢を抑えられず、両勢力による権力闘争は激化するばかりだった[1]。上皇である玄宗との関係も円満なものではなかったという[1]。また燕も史思明が761年に息子の史朝義に暗殺されたが、結局粛宗の在世中には鎮圧することはできなかった。762年、上皇である玄宗と同年に52歳で崩御した。皇太子の李豫が代宗として跡を継いだ。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 張皇后
- 韋妃
- 章敬皇后呉氏