則天武后

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則天武后(そくてんぶこう、624年 - 705年11月)は、政治家。唐の第3代皇帝高宗皇后。第4代皇帝・中宗と第5代皇帝・睿宗の生母。後に武周皇帝となり、中国王朝で唯一の女帝となる(在位:690年 - 705年1月)。日本で一般的な則天武后の名は死後に諡られた則天大聖皇后から由来するもので、彼女は生きている間に名前や称号を多く変えているため[1]、この中の記事においては「則天武后」で最初から統一する。

略歴[編集]

最初、唐の第2代皇帝・太宗後宮に入って才人となる[2]649年に太宗が崩御すると一時的に後宮を去って尼となるが、太宗の後継者である高宗の後宮に迎えられ、権謀術数を駆使して655年に皇后の地位を得た[3]。数年後に夫の高宗が病気により表舞台に立てなくなると夫に代わって実権を握り、万機を決済する[3]。高宗の崩御後は夫との間に生まれた息子の中宗を擁立し、なおも実権を握り続けるが中宗に反抗的な態度が見えると我が子を廃して同じ自分の息子である睿宗を擁立し、我が子を傀儡として事実上の支配者として君臨し続けた[3]。この間、自分に反対する派閥は容赦ない弾圧を加え、690年に遂に睿宗を廃して自ら皇帝に即位し周王朝を創設する[3]。その後15年にわたって女帝として君臨し続ける。705年、高齢のため重病に倒れると、宰相張柬之の勧めに従って中宗に再び譲位し、唐王朝が復活[3]。則天武后は同年に病により世を去った[3]

生涯[編集]

生まれ[編集]

則天武后は武士彠の娘として生まれる[4]。この武士彠は并州文水(現在の山西省)に生まれた商人で、商才に優れて財を成した[4]の時代に下級官吏となったが、隋の混乱期に太原留守として赴任した李淵の部下となる[4]。太宗の時代には地方長官を歴任し、中央政府で工部尚書(現在の建設大臣)にまでのし上がった実力者であるが、則天武后が幼少の頃に世を去った[4]。母親は楊氏といい、武士彠の後妻で、則天武后はその次女として生まれた[4]。姓名は武照(ぶしょう)という[4]。なお、則天武后の生年に関しては有力説は624年であるが、他にも諸説がある[4]

太宗の時代[編集]

則天武后は14歳の時に太宗の後宮に召されて才人(女官)となる[4][5]。これは太宗が則天武后の美貌の評判を聞いて召したといわれるが、太宗が特段則天武后を愛したという記録は存在しない[4]。むしろ太宗を驚かせた逸話が後に則天武后が語った形で記録されている[4]。それによると太宗は当時「師士聡」という駿馬を買っていたが、これは駿馬というより汗馬で誰もがその調教に手こずっていた[6]。それを知った則天武后は太宗に師士聡の調教をさせてほしいと嘆願し、調教に必要として鉄鞭と鉄迦と匕首の使用の許可を求めた[6]。太宗がそれを何に使うのか尋ねると「鉄鞭で打ち据え、それで駄目なら鉄迦を首に突き刺し、それで駄目なら匕首で喉を掻き切ります」と答えたという[6]。この答えに太宗がどのように答えたか、感情等の記録は無いが、この時の事を則天武后は「太宗、朕(則天武后のこと)の志を壮とせり」と述べたとある[6]

太宗には内助の功を発揮した賢婦人の文徳皇后がいたし[7]、このような物凄く勝気で年齢差も親子ほどある則天武后を愛したとはとても思えない[6]。その後、649年に太宗が崩御するまで則天武后の太宗下における後宮での活動の記録は存在しない。

高宗の時代[編集]

太宗が崩御すると、則天武后は感業寺に入れられて尼となり[5]、世捨て人の生活を送るようになった。しかし則天武后は高宗が皇太子の頃から既に男女の関係にあったとされ、また当時の後宮の政争が原因で後宮に召還されることになった[6]。高宗の当時の皇后は王皇后であったが、彼女には子供が無かったので高宗から愛されず、その寵愛は蕭淑妃に向くようになった[8]。王皇后は蕭淑妃に対抗するため、高宗に対して則天武后を還俗させて後宮に召還させることを勧め、高宗もこれに応じた[9]。則天武后は最初は王皇后に献身的に仕え、王皇后もこれを喜んで則天武后に「昭儀」の位を授けるように高宗に勧めた[9]。しかし高宗の寵愛が今度は蕭淑妃から則天武后に向くようになり、王皇后は則天武后を召還したことを後悔して今度は蕭淑妃と手を結んで則天武后の追い落としを図る[9]。しかし則天武后は高宗から下賜された金品を惜しげもなく女官にばら撒いて人気を集めており、また王皇后は名門を鼻に着せて傲慢な態度が多く女官から反感を買っていたため、この陰謀は失敗に終わった[9]

則天武后は王皇后から皇后の地位を奪うため、恐ろしい謀略を実行に移した。高宗から寵愛を得た則天武后は娘を産んでいたが、ある日王皇后はその娘をあやして帰っていった[10]。王皇后自身が腹を痛めて産んだわけではないが、嫡母に当たるからである。そしてしばらくして高宗が娘の様子を見にやってくると、娘は首を絞められて殺されていた[10]。直前にやって来たのが王皇后だったため、この赤ん坊殺害の嫌疑は王皇后にかけられることになった。ただし史書では則天武后自身の手で扼殺されたのだと記録している[11]。しかし根が単純であった高宗は則天武后の演技にかかり、娘を手にかけた王皇后を許さず廃立しようとした。これに対して高宗の伯父に当たる長孫無忌は反対し、太宗時代の功臣である褚遂良于志寧李勣の意見もあり容易には進まなかった[11]。則天武后は母親の楊氏を長孫無忌の屋敷に通わせて説得工作に当たらせたが、長孫無忌は賛成しなかった[11]。しかし則天武后にも味方がおり、礼部尚書(大臣)の許敬宗や中書侍郎(次官)の李義府らであり、彼らは則天武后を皇后に擁立する運動を積極的に展開した[11]

高宗は皇后問題に決着をつけるため、長孫無忌・褚遂良・于志寧・李勣らに召集をかけた。李勣は病気を理由に欠席し、褚遂良は言葉柔らかに王皇后廃立を反対し、他の2人はこの時は意見を述べなかった[12]。高宗は不機嫌になりその日は決断を出さなかったが、翌日になると褚遂良は強硬に反対意見を開陳した[13]。さすがに高宗も則天武后も激怒し、則天武后に至っては褚遂良殺害を一時は命じるほどだったが[13]、彼が太宗の功臣であることは事実だったため手を出すことは控えた。しかも来済らまで皇后廃立に反対しだしたので、さすがの高宗も則天武后も窮地に立たされた[14]。この間、一切意見を述べず欠席していた李勣は高宗に対して皇后の問題は家事であるため、改まって臣下に問うまでもないと申し述べ、これを機に則天武后擁立派が勢いをつけ、許敬宗も再び積極的な擁立運動を展開し、655年に遂に則天武后は皇后に擁立された[14]。強硬に反対した褚遂良は地方の都督として左遷された[14]

皇后に擁立されると則天武后は自らの地位を完全なるものにするため、元皇后である王氏と蕭淑妃を殺害した。『旧唐書』と『資治通鑑』によると則天武后はこの2名を百叩きに処した後、手足を切り落として酒甕の中に投げ込み「骨まで酔わせておやり」と命じるという残忍なもので、この2名は数日後に死亡したという。656年には自分の腹を痛めた子では無い李忠を皇太子位から追い、当時4歳の自分の息子である李弘を皇太子に立てた[15]。さらに自分に反対する勢力を徹底的に弾圧し、来済は地方長官に左遷されて2度と朝見を許されなかった[15]。代わって自分の皇后擁立に功のあった許敬宗、李義府らが宰相に抜擢された[15]659年には長孫無忌も則天武后により反逆罪をでっち上げられて自殺に追い込まれた[15]

664年、夫の高宗もさすがに則天武后の専横に不満を持ち、上官儀と結託して則天武后を廃する詔を出そうとした[16]。しかしこの計画は則天武后に察知され、上官儀は死刑にされてその家族は奴婢に落とされ、高宗も以後は実権を完全に則天武后に奪われて完全に傀儡皇帝と化した[17][18]。このため、人々は皇帝と皇后を2人並べて「二聖」と呼ぶようになった[16]674年には則天武后の発意により、高宗を「天帝」、皇后を「天后」と呼ぶように改称した[19]

則天武后は我が子に対しても容赦しなかった。彼女が皇太子に立てた李弘は人柄のよい謙虚な青年に成長したが、それだけに則天武后の行ないに心を痛め、特に母親が殺した蕭淑妃の2人の娘、すなわち自分の異母姉が30歳を超えても母親の妨害で結婚も許されず宮中に監禁同然に押し込まれていたので李弘は同情し、重臣の誰かに嫁がせるべきと父の高宗に提言し、高宗も了承した[19]。ところがそれを知った則天武后は激怒し、2人をすぐに身分卑しい軍人に嫁がせ、李弘も間もなく謎の急死を遂げたので則天武后に毒殺されたという噂が立ったという[19]。李弘の死後、新しく皇太子に立てられたのはすぐ下の同母弟である李賢である。彼も明敏な資質を持った優れた青年であったが、ある時自分の母親は則天武后ではなくその姉の韓国夫人との間に生まれた息子という噂が流れ、それを機に若い李賢は酒に溺れるようになる[20]。また則天武后はこの頃に明崇儼という祈祷師を重用していたが、この明崇儼が殺されてその嫌疑が李賢にかけられた[20]。東宮を捜査すると馬坊から数百領に及ぶ鎧が発見されて李賢は殺人と大逆の嫌疑をかけられてしまう[20]。父の高宗は助けようとしたが則天武后は許さず、李賢は皇太子から追われて庶人に落とされ、高宗が崩御した翌年に巴州(現在の四川省)の配所において則天武后の使者により自殺を強要されている[20]。そして代わって皇太子に立てられたのが同母弟の李哲改め李顕であり、この李顕は凡庸だったので則天武后に逆らうことはなかった[20]

中宗・睿宗の時代[編集]

683年に高宗が崩御すると、李顕が中宗として跡を継いで即位する[21]。しかし国政の実権は則天武后にあり、中宗は生母に対抗するため韋皇后の父である韋玄貞を門下侍中(宰相)に、乳母の子供を五品官に取り立てようとした[21]。しかし中書令の裴炎が反対すると「朕がその気になれば天下を(韋玄貞に)与えることができる。侍中くらいがどうだと言うのだ」と発言したという[21]。これを知った則天武后は中宗を見限り、殿中に文武百官を集めて中宗の廃位を宣言[21]。中宗は「我に何の罪があってか」と述べたが則天武后は「韋玄貞に天下を与えようとしたこと」と述べ、中宗を皇帝から蘆陵王に落として幽閉の身とした[21]。皇帝の地位にあること、わずか54日であった[21]

新しい皇帝には同母弟の李輪が睿宗として立てられたが、則天武后から国政に関わることは一切許されない立場に置かれた[21]

こうして完全に国政は則天武后の支配するところとなり、則天武后の甥の武承嗣武三思ら武氏一族が権力中枢に重用されるようになるが、そうなると不満を抱く者も現れる[22]。李勣の孫の李敬業がそれであり、彼は684年9月に不満分子を糾合して反乱を起こしたが作戦のまずさから1か月で鎮圧された[22]。しかしこの反乱を機に則天武后は「告密の門」を開いて密告を奨励した[23]。密告者には駅馬や旅館を与えるなどの至れり尽くせりの待遇を与え、密告の内容が則天武后の意に適えば官僚に抜擢され、仮に出鱈目な密告でもお咎めなしとされるから、たちまち密告者が引きも切らぬ有様になった[23]

さらに則天武后は反乱など起こさせないようにするため恐怖で支配を強めようとした[23]。すなわち酷薄な検察官僚「酷史」の登用である[23]。則天武后により索元礼周興来俊臣万国俊侯思止王弘義などが見出され、容疑者の取り調べも過酷を極めた[23]。自白を強要する際に行なわれる拷問に定百脈、喘不得、突地吼、著即承、失魂胆、実同反、反是実、死猪愁、求即死、求破家、仙人献花、玉女登梯などがあったという[23]。また来俊臣と万国俊が記した『羅織経』によると無実の者を落とす手口が克明に記されている。当時、これらの酷史が取り調べに当たった役所は洛陽の麗景門の中にあったため「例竟門」と呼ばれていた[23]。例竟とは「皆命を落とす」という意味で一度この門をくぐったら生きては帰れないと恐れられ、官吏らは朝廷に参内する時にこのまま囚われて2度と家族と顔を合わせることができないのではないかと別れを惜しんだと伝わっている[23]。こうして則天武后の徹底した恐怖政治により反対勢力は徹底的に弾圧され[24]、舞台が整ったと見た則天武后は690年9月に遂に睿宗を廃して武氏に改姓させて皇嗣に格下げし、自らが皇帝に即位して武周王朝を創始したのである[25]

女帝として[編集]

即位した則天武后は自身を聖神皇帝と称した[26]。則天武后の15年の治世において見られる治績は文化の発展と人材の取り立てにある[26]。また宮中や政界では粛清の嵐が吹き荒れたが、国民は平和な暮らしを楽しんでいたという[26]

則天武后は既に女帝に即位する前の675年頃から多数の文学者を集めて『列女伝』『臣軌』『百僚新誡』『楽書』など1000余巻にのぼる書物を編集し、女帝になってからは寵愛する張易之張昌宗兄弟のために控鶴府(後に奉宸府と改称)という役所を設置し、李嶠張説宋之問ら詩人・文化人を動員して『三教珠英』という大部の書を編集させた[26][27]。また則天武后は大変な改名好きで、即位した年に洛陽を神都、中書省を鳳閣、門下省を鸞台、尚書省を文昌台、中書令を内史、門下侍中を納言、元号にしても15年の間に何と16回も変えており、こんなにたびたび改元や改名をした皇帝は則天武后だけである[27]。また即位当初は聖神皇帝と名乗ったが、693年に金輪聖神皇帝、694年に越古金輪聖神皇帝、695年に慈氏越古金輪聖神皇帝、天冊金輪大聖皇帝と変えている[27][28]。さらに則天武后は則天文字と呼ばれる新文学まで制定した[28]

人材の登用においても則天武后はかなりの目利きがあったようで、ただ優秀な人材を見出すだけでなく使い方も心得ていたようである。例えば前述したが則天武后は自分の権力を確立するために酷史を登用したが、これらが周囲から不満を買いだして弊害のほうが強くなるとあっさりと切り捨てた。ちなみに索元礼は獄死、周興は流罪にされるがその途上で斬殺、侯思止や王弘義は杖殺、来俊臣は殺された上に遺体を切り刻まれたとされている[29]

ちなみに則天武后に登用された張柬之、姚崇らはいずれも則天武后の時代に厚く信任された狄仁傑により推挙された人物らで、彼らは後に玄宗(則天武后の孫)の時代に活躍した面々である[30]。また則天武后は自分を支える狄仁傑が700年に死去した際「天我が国老を奪う。なんぞ太だ早きや」と嘆いたという[30]

退位・崩御[編集]

705年1月、82歳の高齢を迎えた則天武后は重病の床にあり、宰相の張柬之らから勧められて皇太子にしていた息子の李顕(中宗)に譲位して唐が復活する[28]。この際、制度などは全て夫の高宗時代の物に戻した[31]。11月、則天武后は回復することの無いまま82歳で大往生を遂げた[28][31]。ただし年齢に関しては77歳、78歳という新説もある[31]

人物像[編集]

則天武后は運と才能で女帝にまでのし上がったまさに「女傑」であった。現代のように男女平等ではなく、当時の社会特に中国では『大戴礼』にあるように女性の社会的地位は低く人権においては全く認められない(「七去」など)中でのし上がったのである。父親は高官ではあるが則天武后が幼い頃に亡くなっているため、特に門閥の背景があったとも思えず、その中でのし上がった彼女はまさに女傑あるいは才女というべきであろう。

ただしのし上がる過程においては己の障害になる者であればそれが誰であれ容赦はしなかった。そのため張翼の『二十二史箚記』では「石虎苻生明帝文宣帝海陵王朱元璋らもかなり殺を好む無道の君(朱元璋のみは英主としている)であるが、則天武后のごとき忍(残忍)なる者はあらざるなり」と評してその残忍さを批判している。『旧唐書』の則天武后本紀においては「その不道たるや甚だし。また姦人妬婦の恒態なり」と批評している。

ただし一方で則天武后の政治手腕、特に人材発掘に関しては則天武后の人格を批判しながらもその点に関してだけは積極的に高評価が与えられている。『資治通鑑』においては「巧慧にして権数多し」とあるがこれは則天武后が頭脳明晰だったことを示しているし、『新唐書』后妃列伝においては「しかれども賞罰己より出でて群臣を仮借せず、上を僭げども下を治む。故によく天年を終う」とあるように、その治世に致命的な破綻がなく玄宗を支える名臣が彼女の時代に登用されている点からその政治手腕が高く評価されている一例となっている。

則天武后の人材登用に関しては数々のエピソードがある。則天武后の専制に反発した一派が挙兵した際、挙兵の檄文が起草されたがそれが名文だったため、則天武后は「これほどの文才のある者をほったらかしにしておくとは、一体宰相は何をしているのか」と述べたと伝わる[32]。また、則天武后は自分がのし上がる過程で様々な重臣や酷吏を登用しているが、例えば宰相に任命した李義府は賄賂をとったりして不人気になると解任して流刑にし後に憤死させているし、酷吏でも人気がなくなるとあっさり切り捨てていずれも天寿を全うしていない。このように則天武后は彼らの利用価値や限界を心得てうまく使っていたことがわかる。また則天武后はある僧侶を愛人にしていたが、この僧侶がその愛人関係をいいことに目に余る振る舞いをし始めると女官に命じて撲殺させている。このように則天武后は人を使っても使われることはない強かさがあった。一方で温情もあったようで、ある時則天武后を「目の見えない皇帝」と批判していた者が捕らえられてその前に引き出されたが、則天武后は「お前たち(役人)がしっかりしていればそれでよい。人の言うことなど気にするでない。釈放しておやり」と笑いながら命じたという。また、女帝に即位してから全国に家畜の解体と魚介類の採取を禁止したことがあったが、張徳という役人がこの禁令を破った。息子が生まれて親しい同僚らにその祝いをするためであったが、この行為を同僚の一人の密告で則天武后に知られ、張徳は則天武后に呼び出された。しかし則天武后も子を持つ親であったためか、「今後客を呼ぶとき、人を選ぶがよい」と述べて罪に問わなかったという。このように人材を見る目、それを使うことに長けた則天武后は『二十二史箚記』[33]や『資治通鑑』[34]において人格で批判を受けながら人材鑑定、手腕においては超一流と評価している。

文化面でも多くの影響を後世、あるいは日本に伝えている。彼女は改名好きで元号を在位15年の間に16回も変えており、その元号の中には天冊万歳万歳登封万歳通天という4字の元号まである(則天武后が4字を初めて用いたわけではないが、珍しいことは確かである)。則天武后の崩御から半世紀後に日本でも天平感宝というように4字元号が採用されているが、これは則天武后を真似たものと伝わる。また、彼女が定めた則天文字、例えば徳川光圀の「圀」(国)などはその一つで、後々まで日本に影響を与えたのである。

脚注[編集]

  1. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P260
  2. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P233
  3. a b c d e f 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P230
  4. a b c d e f g h i j 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P235
  5. a b 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P154
  6. a b c d e f 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P236
  7. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P224
  8. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P237
  9. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P238
  10. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P239
  11. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P240
  12. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P241
  13. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P242
  14. a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P243
  15. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P245
  16. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P246
  17. 「百司、事を奏するに、上あるいは皇后をしてこれを決せしむ。后、性明敏にして文史に渉猟す。事を処して是皆に弥う。これより始めて委ねるに政事をもってす。権、人主とひとし」(『資治通鑑』)
  18. 「これより上、事を視る毎に、則ち后、簾を後に垂る。政、大小となく、皆与にこれを聞く。天下の大権ことごとく中宮(皇后)に帰し、任免殺生その口に決し、天子、手を拱くのみ」(『資治通鑑』)
  19. a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P247
  20. a b c d e 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P248
  21. a b c d e f g 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P249
  22. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P251
  23. a b c d e f g h 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P252
  24. 「内外の大臣、坐して死及び流貶せらるる者甚だ衆し」「唐の宗室ここにおいて殆んど尽く」「太后、酷史を任用し、先ず唐の宗室貴戚を誅すること数百人、次いで、大臣数百家に及ぶ。その刺史郎将以下は勝げて数うべからず」(『資治通鑑』)。
  25. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P253
  26. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P258
  27. a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P259
  28. a b c d 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P260
  29. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P255
  30. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P257
  31. a b c 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P156
  32. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P250
  33. 「然れどもその諌を納れ人を知るは、また自ら及ぶべからざるものあり」
  34. 「太后、濫りに禄位をもって天下の人心を収むといえども、然れども職に称わざる者は、これをおとし、或は刑誅を加う。刑賞の柄を挟みて、もって天下を駕御す。政は己より出で、明察善断す。故に当時の英賢また競いてこれが用をなす」

則天武后の登場作品[編集]

小説[編集]

  • 林語堂『則天武后』(小沼丹訳 みすず書房、初版1959年)
  • 津本陽『則天武后』(上・下、幻冬舎のち幻冬舎文庫)
  • 山颯(シャン・サ)著『女帝 わが名は則天武后』(吉田良子草思社2006年(平成18年) ISBN 4794215037)
  • 原百代『武則天』(私家版, 1978 / 毎日新聞社全5巻.新版全3巻、講談社文庫全8巻)
  • 森福都『双子幻綺行』(2001年2月 祥伝社)

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

参考文献[編集]