徳宗 (唐)
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徳宗(とくそう、742年 - 805年[1][2])は、唐の第12代皇帝(在位:779年 - 805年[1])。姓名は李适(りかつ)[1]。
生涯[編集]
第11代皇帝・代宗の長男[2]。安史の乱の最中の762年に父が代宗として即位すると、李适は天下兵馬元帥に任命されて燕の史朝義を討伐し、河北を平定して[2]安史の乱を763年までに鎮圧した。764年に皇太子に封じられ、779年に父帝が崩御したため即位する[2]。780年、宰相の楊炎の意見に従って均田制や租庸調の税制を廃止し、両税法を施行し、中国税制史上において一大革新を成した[2]。
徳宗は節度使の権力が強大化して地方分権化が進んでいるのを危険視し、その権力を抑制しようとしたが、そのため節度使の反発を招いて彼らは反乱を起こし、准西節度使の李希烈は自ら王を称して反乱を起こした[2]。徳宗は討伐軍を派遣したが既に弱体化していた唐軍では鎮圧できず、しかも鎮圧するべき討伐軍の中からも前廬龍節度使の朱泚が兵士に擁立されて皇帝を称するなど混乱は深まるばかりだった[2][3]。結局、徳宗は己を罪する詔を下してこの混乱を何とか収めようと努め[2]、反乱を起こした2名もいずれも最終的には鎮圧されている。
しかし節度使、すなわち藩鎮の勢力は依然として強大であり、徳宗はそれを抑えられないまま[2]805年に64歳で崩御。跡を長男の李誦が順宗として継いだ。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 昭徳皇后王氏
- 韋賢妃