中宗 (唐)
中宗(ちゅうそう、656年 - 710年6月[1])は、唐の第4代・第6代皇帝(在位:683年 - 684年[1]。705年 - 710年[2])。姓名は李 哲(り てつ)[3]、後に李 顕(り けん)[2]。
生涯[編集]
第3代皇帝・高宗の7男[2]。母は則天武后。7男のため皇位継承権は無かったが、656年に異母兄の李忠が則天武后により皇太子位を追われ、代わって立てられた同母兄の李弘は[4]、謙虚で礼儀正しかったので周囲からの信望も厚かったのだが、則天武后が殺した蕭淑妃の2人の娘(つまり李弘の異母姉)が生母の妨害により30歳を過ぎても結婚の許しがもらえない境遇に同情して父の高宗に2人を重臣の誰かと結婚させてはと進めたため、激怒した則天武后により毒殺された[5]。その次に皇太子にされた同母兄(李弘の同母弟、中宗の同母兄)の李賢(章懐太子)も優秀な資質を備えた青年で周囲の期待も高かったが、則天武后の所業に苦しんで次第に酒に溺れていき、680年に則天武后から見限られて謀反の罪を着せられて皇太子位を追われ、庶民に落とされた[3]。このため、新しい皇太子に立てられたのが李顕であったが、2人の兄と違って明らかに凡庸であったという[3]。
683年に高宗が崩御すると、跡を継いで即位する[6]。しかし国政の実権は則天武后にあり、中宗は生母に対抗するため韋皇后の父である韋玄貞を門下侍中(宰相)に、乳母の子供を五品官に取り立てようとした[6]。しかし中書令の裴炎が反対すると「朕がその気になれば天下を(韋玄貞に)与えることができる。侍中くらいがどうだと言うのだ」と発言したという[6]。これを知った則天武后は中宗を見限り、殿中に文武百官を集めて中宗の廃位を宣言[6]。中宗は「我に何の罪があってか」と述べたが則天武后は「韋玄貞に天下を与えようとしたこと」と述べ、皇帝から蘆陵王に落とされて幽閉の身となった[6]。皇帝の地位にあること、わずか54日であった[2][6]。
幽閉先において中宗は韋皇后と共に暮らしたが、その際に中央から何度も勅使が送られたことがある。気弱な中宗は母親が自分に自殺を進めるのではないかと恐怖し、自殺未遂すら図ったことがあったが、その際に中宗を支えたのが韋皇后であった[7]。このため、中宗は韋皇后を深く愛し、もし再び皇帝になったら何でも願いを聞き届ける約束までしたという[7]。
則天武后はその後、同母弟の睿宗を立てたが、690年に彼も廃して自ら皇帝に即位し武周を創設した。しかし則天武后が高齢となり重病に倒れると家臣の中から唐の復活を望む声が上がり、697年に中宗は幽閉場所から洛陽に召還されて皇太子になった[8]。これは則天武后の政治に反対する一派を和らげる狙いがあったという[8]。705年1月に則天武后から譲位されて再度皇帝として即位[2][9]。その年の内に則天武后は崩御したため、中宗は自ら親政しようとする。
しかし前述したように、気弱な夫を献身的に支えようとする皇后。これはかつての高宗と則天武后の関係そのものだった[7]。そのため国政の実権は韋皇后が掌握し、彼女による専横が始まった[7]。また中宗と韋皇后の娘である安楽公主も国政に介入しだした[7]。ただし韋皇后と則天武后の間には歴然とした違いがあった。則天武后には高宗の間に男子がいたこと、則天武后は出鱈目なように見えて実はかなり優秀な政治をしていたこと、それに対して韋皇后には中宗との間に娘しかいなかったこと、政治力などほとんど無かったことである。しかも中宗は既に50歳と当時としては高齢であり、もし中宗が崩御したリすれば即位するのは韋皇后が腹を痛めた息子ではない李重俊となることを恐れた[10]。このため韋皇后と安楽公主は李重俊を皇太子の地位から追おうと画策し、追い詰められた李重俊は反乱を起こして韋皇后を支持する武三思こそ殺害したが、事敗れて707年に殺害された[10]。
さすがの中宗も我が世継を殺されて怒りを覚えたが、気弱な中宗は有効な対策を打つことができず、710年に韋皇后と安楽公主に毒を盛られて殺害された[2][10]。享年55。
後継者には中宗の4男・李重茂が殤帝として韋皇后と安楽公主により擁立されたが、睿宗の3男である李隆基のクーデターにより韋皇后らは排除され、睿宗が即位することになる[2][11]。
宗室[編集]
后妃[編集]
子[編集]
女[編集]
脚注[編集]
- ↑ a b 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P156
- ↑ a b c d e f g 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P157
- ↑ a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P248
- ↑ 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P245
- ↑ 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P247
- ↑ a b c d e f 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P249
- ↑ a b c d e 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P268
- ↑ a b c 山川出版社『世界史のための人名辞典』、P186
- ↑ 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P260
- ↑ a b c 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P270
- ↑ 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P271