高宗 (唐)

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高宗(こうそう、628年 - 683年[1])は、の第3代皇帝(在位:649年 - 683年[1])。姓名は李 治(り ち)[1]は為善[1]則天武后の夫として有名である。

生涯[編集]

第2代皇帝・太宗の9男[1]。母は長孫無忌の妹・文徳皇后[1]。李治は9男であり、同母兄に李承乾李泰がいたため、本来なら皇位継承の可能性は皆無であった。ところが李承乾は20歳を超えた頃から奇行が目立ち始め、遂には謀反を企てたとして皇太子位を廃された[1]。李泰は学問に優れて周囲からの人望も厚い青年だったが、これは皇后の兄である長孫無忌の反対により皇太子にできず、その長孫無忌が強硬に推挙した李治が皇太子に推挙された[1]。ただし李治は先の2人に比べると明らかに凡庸で、太宗は李治の資質を死ぬまで案じていたと伝わる。

649年に太宗の崩御を受けて即位する[1]。当初は太宗の遺産や遺風があって泰平が続き、国政自体も外戚の長孫無忌、貴族官僚の褚遂良が見たため問題はなかったが、次第に長孫無忌の専制に周囲から不満が出だした[1]。これに皇后問題で則天武后が出てくると一気に政争が勃発。高宗自身も子供のいない王皇后には不満があったため、遂に王皇后を廃して則天武后を新たに皇后とした[2]。このため則天武后の一派が以後は要職に就き、褚遂良は左遷され[2]長孫無忌は失脚して後に自殺に追い込まれた[3]

元々、高宗は父が心配したように凡庸で、おまけに史書によると病弱で「風疾」とも「風眩」とも記録されているように頭痛持ちで視力も衰えていったという。このため男勝りで頭脳明晰であった則天武后にたちまち押さえ込まれ、国政の実権は則天武后に掌握されたと『資治通鑑[4]にある。664年、則天武后の専制に不満を抱いた高宗は彼女が道士を宮中に入れて呪いをしていることを理由に廃そうとしたが[5]、則天武后に計画を事前に知られてたちまち押さえ込まれ、高宗の廃立計画に協力していた上官儀が処刑された。以後、弱みを握られた高宗は完全に則天武后の傀儡と化し[5]、国政は完全に則天武后により決裁されるようになった[6]。このため人々は高宗と則天武后を並べて「二聖」と呼ぶようになった[7]674年には則天武后の発意で高宗を「天帝(天皇)」、則天武后を「天后」と呼ぶように改められた[5][7][8]

高宗の後継者に関しても全て則天武后の意のままにされ、最初の皇太子である李忠は廃され、次の李弘は謎の急死を遂げ、次の李賢は則天武后に廃されて高宗崩御の翌年に自殺させられている。この際、李賢を何とか許そうと高宗は動いたが、則天武后の意によりどうにもならなかったという[9]。そして李顕が皇太子になった。

晩年の高宗は病気が進行して健康状態が悪くなり、遂に重態になって頭痛に苦しみ、視力も失ったという[5]。683年に崩御した[5]。享年56[5]。跡を李顕が中宗として継いだ。

対外的には663年白村江の戦い日本百済連合軍に勝利し、668年高句麗を滅ぼして新羅を除く朝鮮半島を支配下に置いたが、676年になると朝鮮半島から撤退している。ただし高宗の時代に行なわれた、であり、実際は則天武后により行なわれた、と考えたほうがよいかもしれない。

人物像[編集]

高宗は凡庸な人物として知られるが、『新唐書[10]においては先帝の太宗が中国歴代王朝の中でも屈指の名君と認めている中で高宗を世継にしたことを「千慮の一失」として非難してさえいる。同書によると高宗のことを「昏童」としているが、これは「ぼんくら」の意であり、皇帝をここまで虚仮にするほど高宗の資質が凡庸だったと言えるであろう。

宗室[編集]

后妃[編集]

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脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P153
  2. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P243
  3. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P245
  4. 「初め武后よく身を屈し辱を忍んで、上の意に奉順す。故に上、群議を排してこれを立つ。志を得るに及んで、専ら威福をなす。上、なすところ有らんと欲すれども、ややもすれば后の制するところとなる」
  5. a b c d e f 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P154
  6. 「百司、事を奏するに、上あるいは皇后をしてこれを決せしむ。后、性明敏にして文史に渉猟す。事を処して是皆に弥う。これより始めて委ねるに政事をもってす。権、人主とひとし」(『資治通鑑』)
  7. a b 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P246
  8. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P247
  9. 『中国皇帝列伝』PHP研究所、2006年、P248
  10. 「太宗の明をもって子を知るに昧し。廃立の際に自ら決するにあたわず。ついに昏童を用う」

参考文献[編集]