ナチス

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ナチスとは、ドイツ政党。正式な日本語呼称は国民社会主義ドイツ労働党(Nationalsozialiscisceh Deutsche Arbeiterparrei (NSDAP))、もしくは国家社会主義ドイツ労働者党とも訳される。ナチスという呼称はNationalsozialistの略称Naziの複数形である。ナチスという呼び方は反ヒトラー勢力が、NSDAPにつけた蔑称である[1][2]。※党名に社会主義とあるが実際は社会主義ではなく民族・国家主義の極右政党であった。

概要[編集]

沿革[編集]

NSDAPの前身は1919年1月5日ミュンヘンでドレクスラー(Anton Drexler)によって結成されたドイツ労働者党(Deusche Arbeiterparrei)である。党是はナショナリズム・反マルクス主義・反ユダヤ主義であった。全国的な極右の反ユダヤ主義団体トゥーレ協会(Thulle Gesellschaft)の支援を受ける[1][2]

1919年9月中旬にヒトラー(Adolf Hitler)が入党する。宣伝担当になったヒトラーは大衆活動により党勢を拡大する。しかし、大衆化の方針をめぐってドイツ労働者党とトゥーレ協会との間を仲介したハラーと対立しトゥーレ協会との関係が解消となる[1][2]1920年にドレクスラーとヒトラーにより25ヶ条の党綱領が発表される。内容は、大ドイツ国家の建設・ベルサイユ条約反対・反ユダヤ主義に加えて、中間層や労働者の利益を考慮した要求を盛り込んだ。この頃NSDAPに党名を変更する。また、ヒトラーと旧幹部との間に権力闘争が起こり、1921年7月2日に臨時党大会が開催され旧幹部が排除され、ヒトラーの独裁者としての立場が確立した[1][2]。1921年にヒトラーが党首に就任するとともに、選挙による上級指導者の選出、合議制機関の廃止を行い、党首を頂点とした指導者原理を確立する。

当初はミュンヘン市内に活動は限られていたが、徐々にドイツ全体に広がっていった。NSDAPの主張は一部の労働者の支持だけでは無く、第一次世界大戦後経済的にも心理的にも追い詰められていた、中間層(手工業者・商人・ホワイトカラー)にも支持を広げていった[2]

権力獲得のために議会選挙ではなく突撃隊の強化とバイエルン国防軍や民間の軍事団体と提携しクーデターによる権力奪取を目指した。1923年ミュンヘン一揆を企てたが失敗に終わりNSDAPと突撃隊は禁止になりヒトラーも5年間の禁固刑に処せられる。ヒトラーの入獄中にNSDAPは三つのグループに分裂してしまう。この対立の結果1924年ヒトラーは一切の党指導からの引退を表明し釈放される。出獄後ヒトラーは『わが闘争(Mein Kmpf)』[3][4]を出版して運動方針を示す。1925年ヒトラーはNSDAPを再建する。1926年には突撃隊も再建する。しかし、突撃隊は武器の携行が禁止された[2]

ヒトラーは入獄中に勢力を伸ばしていた他の有力指導者の動きを封じ込め、25ヶ条の党綱領の不変更を宣言するとともに、指導者原理を再確立した。NSDAPはその後全国に組織を広げ全国の指導部を大管区・管区・支部・細胞・ブロックという階層構造にまとめ上げる。また、並行してドイツ女子団、ヒトラー青年隊などの年齢別、性別職業別の付属組織結成し党の大衆化を目指した[2]。党員数が1933年に150万人に到達する[2]

1928年5月の国会選挙に参加するも得票率は2.6%にとどまった。このため、情宣活動を工業都市中心から農村中心に変更する。作戦変更が功を奏し1930年にチューリンゲン邦の内閣に最初の閣僚としてフリックを送り込むことに成功する。1932年7月の国会選挙では第一党に躍進する。 1933年1月30日、大統領ヒンデンブルグ周辺の保守派・軍部・経済界の中枢はNSDAPを中心とする連立内閣の樹立に踏み切り、ヒトラーは首相に任命された[2]

ヒトラーは首相任命後組閣し、ドイツ国議会を解散する。SAをはじめとする各種の大衆団体に支えられ、NSDAPに対する反対派を弾圧し3月の総選挙で勝利を収める。3月23日に議会で全権委任法を成立させ民主主義的手法で独裁制を樹立する。7月1日に新政党の結成がすべて禁止となる[2]

NSDAPを在野時代から支えてきたSAは攻撃的性格でNSDAPとは一定の方針のずれがあったため1934年に幹部多数が虐殺される。SA無きあとは、SAの下部組織で会ったSSが独立組織となりSAの役割を行う。秘密国家警察(ゲシュタポ)はSSの一組織である。秘密国家警察によって政治的反対派を強制収容所に入れて虐待した。1934年8月2日に大統領ヒンデンブルグが死去することに伴い、ヒトラーは首相と大統領を兼務するフューラー(Führer)になった。

政治[編集]

基本方針は25ヶ条の党綱領にあるように、大ドイツ国家の建設・ベルサイユ条約反対・反ユダヤ主義に加えて、中間層や労働者の利益確保を目指すものであった。党活動のスタイルは演説集会を多数開催することに特徴が有る。また、突撃隊(Strumabteilung SA)を結成し、褐色の制服でポスター貼り・ビラまき・示威行進等を行う。突撃隊は左翼勢力との乱闘も行っている[2]

選挙活動では、新聞、雑誌、レコード、マイクロホン、スピーカー等の最新技術を使用するとともに、演説者の迅速な移動のため自動車や飛行機なども駆使した[2]

政権を握るまでのNSDAPは大衆化を目指すため党組織の整備や、年齢別・性別・職業別の付属組織を樹立した。ドイツ人の中で多数を占める中間層の各自の利益を徹底して主張するとともに、利益を貫徹するためには議会制民主主義体制と多党政治の排除を主張した。政権取得後は独裁制を敷き、各官庁と統制機関は「指導者原理」によって組織された[2]

注目すべきはワイマール憲法の下、民主的な選挙によりヒトラーの独裁政権が樹立したことである[5]

経済[編集]

ワイマール共和国末期の失業救済計画が大規模に拡張された[2]。この失業救済計画は従来の財政均衡主義からケインズ主義への転換を行ったものである[6]。ワイマール共和国時代の長引く不況で倒産する企業も多かったが、社員を大量解雇しコスト削減を図ることで生産性が向上し、ヒトラー政権前に景気改善の兆候が見られた。後、ひと押しの政府の財政出動があれば一気に景気回復に迎える段階にあった[6]

ヒトラーが行った経済政策は従来の経済政策と規模が桁違いである。ヒトラーが政権を握る以前の公共事業総額は3億2000万マルクであるのに対して、1933年にいきなり20億マルクの予算を計上している[7]。ヒトラーはこの資金捻出のためドイツ帝国銀行の総裁であり、第一次世界大戦後のハイパーインフレを収束させた金融家のヒャルマル・シャハト(Hjalmar Schacht)を非ナチス党員であるにも拘わらず経済大臣に就任させた。シャハトの緻密な計算によりインフレが発生しない範囲内での国債発行が行えた[8]

目玉となる公共事業はアウトバーンの建設であった。アウトバーンは片側三車線・立体交差・居眠り運転防止のための適度なカーブ・サービスエリア(ドイツ・オートモービル・クラブと呼ばれた)・展望台・緊急電話を中心とする事故の際の連絡網・修理工場の設置等、世界の高速道路のモデルとなった[9]。また、アウトバーン建設では失業対策として労働者の賃金から逆算して予算が組まれた。このため建設費のうち46%が労働者の賃金として支払われた[10]。公共事業投資のおよそ半分が労働者の賃金として支払われることで、労働者の個人消費が伸びることで乗数効果が発生し、短期間で全産業に好景気の波及効果を生み出すことになった[10]

外交[編集]

ワイマール共和国時代のドイツ外交は修正外交とも呼ばれ、国際協調主義のもと第一次世界大戦以前のようにイギリスやフランスと同等の地位を取り戻す事を目標としてきた。要はヴェルサイユ体制の見直しである[11]。ワイマール共和国末期になってラインラントからフランス軍の撤退、賠償金問題の最終決着、軍事平等権承認等の成果を上げた。しかし、領土や国境問題については解決に至っていない問題が多数有った[12]

ヒトラーは政権を握ると最初の数年間外交について、二つの顔を使い分けた。ヒトラーはわが闘争の中で『ヨーロッパ内に二つの大陸強国の成立を決して許してはならない。』[引用 1][4]と記述しており、タカ派のヒトラーが首相になれば戦争が起きかねないと危惧されていた。しかし武力に訴えて目標を達成しようとする顔と、国際ルールに従い交渉で紛争を解決しようとする「平和主義者」の顔を使い分けた。

しかし、ヒトラー政府は秘密裏に軍備拡張を行っており国際連盟がヒトラー政府に危機意識を持ちジュネーブ軍縮会議を再開させると、表向きは会議の再開を歓迎しつつもドイツの国益に反するととらえた。西欧列強がドイツに対して軍事制限を課していながら自国の軍縮を進めないのはヴェルサイユ条約第八条に違反するとヒトラー政府は主張した[13]。ジュネーブ軍縮会議を歓迎する態度を見せながらも軍縮会議を決裂させるのがヒトラー政府の目論見であった[13]

福祉[編集]

優生思想の一環として、国民の健康増進運動を積極的に行った。禁煙運動を世界で最初に始めた。その後、優生思想が過激化し精神病患者の安楽死に始まり、最後はユダヤ人の大虐殺に行き着いた[14]。 わが闘争の中では子供が民族の中で最も貴重な財宝であると説いている[15]。また、教育は知識の注入よりも健康な身体の養育に力を入れるべきと主張している[16]。これらの考えは最終的には優生思想につながるが、ドイツ国民の健康増進を行った。

科学・工業技術[編集]

科学技術の発展に尽力した。ジェット機[17]、ミサイル[18]、アサルトライフル、フォルクスワーゲン[注 1][19]、サリンなどは、ナチスの技術者が開発したものである。 アメリカが開発した小型の軍用車ジープはパートタイム式の四輪駆動車だが、ナチスが開発した小型の軍用車キューベルワーゲンは、悪路走破性を高めるためになんとLSDが取り付けられていた。 ドイツで開発されたものではないが、ドイツのエニグマ暗号を解読するためにイギリスが開発した装置は、コンピューターの原型となったものである。

軍事・軍備[編集]

アメリカは第二次大戦中に原爆を完成させたが、ナチスドイツでは水爆を開発中であった[20]。軍事力にものを言わせて領土を拡大していったが、敵を増やし過ぎて敗北を招いた。

その他[編集]

自然保護や動物愛護に尽力した[21]

ナチス党歌

年表[編集]

ナチスの誤算[編集]

  • ヒトラーは当初からソ連に侵攻するつもりであり、独ソ不可侵条約はソ連を油断させて騙し討ちにするための偽装工作であったのだが、日本がドイツに倣って日ソ不可侵条約を締結してしまい、日本が糞真面目に日ソ不可侵条約を守ったために、日本と共同でソ連を挟み撃ちにすることが出来なくなった。その結果、ソ連は軍事力を対独戦に集中的に投入することが可能となった。
  • ドイツ人はロシア人を劣等民族と見なして見くびっていたが、予想外の猛反撃を受ける。
  • ソ連の兵器は平均してドイツの兵器よりも劣っていたが、戦車だけはドイツを凌駕していた。
  • ソ連の寒冷な気候はドイツ軍を苦しめた。
  • ソ連の領土はあまりにも広大であった。
  • 敵を増やしすぎた結果、戦力を分散させざるを得なくなり、一つの敵国との戦闘に軍事力を集中させることが困難となった。
  • 同盟国の日本がアメリカに宣戦布告したため、ドイツは米ソ両大国を敵に回すことになる。
  • イギリスは強力な海軍を有しており、ドイツは海軍力ではイギリスに歯が立たなかった。
  • 強敵イギリスは、ポーランドやフランスと違って陸続きではなく、陸軍が総攻撃を仕掛けることができなかった。
  • 同盟国のイタリアはドイツの足を引っ張ることになる。
  • ドイツは科学技術は優れていたが、武器を大量生産する工業力ではアメリカに及ばなかった。
  • ドイツ人は機械作りが得意でも、核兵器を作り上げるにはユダヤの頭脳が必要であった。
  • ドイツの戦闘機は航続距離が短く、遠方を攻撃できなかった。或いは遠方を攻撃する爆撃機を護衛することができなかった。
  • エニグマ暗号を敵に解読されてしまい、暗号による通信は敵に筒抜けになっていた。
  • ロケット兵器の開発に予算や人員を使いすぎて、他の兵器の生産に支障をきたした。ナチスのロケット兵器の研究は戦後の宇宙開発やミサイルの開発に多大な貢献をすることになったが、ナチスにもたらした戦果は微々たるものであった。

もし[編集]

  • もし、ヒトラーがソ連に手を出さなかったら、ドイツは国力を維持できたかも知れない。しかし、わが闘争には『われわれはヨーロッパの南方および西方に向かう永遠のゲルマン人の移動を東方の土地に視線を向ける』[引用 2][34]とある。また『わがドイツ民族に必要な土地の獲得という意味での東方政策が目標なのである。』[引用 3][35]とあり、ソ連に手を出さないという「もし」はあり得ない。
  • もし、同盟国の日本がアメリカの挑発に乗らなかったらアメリカを敵に回さずに済んだはずである。と言うより日独伊三国同盟が結ばれていなかったら、アメリカはヨーロッパ戦線に参戦する大義名分が無かったはずである。
  • もし、日本がアメリカではなくソ連を攻撃していたらドイツはソ連に勝てたかも知れない。しかし、日本にとってソ連と戦っても得られるものが少なくメリットが無い。本当に同盟国ならもう少し腹を割って話し合う機会は無かったのかという疑問が残る。
  • もし、ドイツにゼロ戦があったら、その優れた航続距離によって全ヨーロッパの制空権を確保できたに違いない。同盟を結んでいたのであれば設計図の提供程度のことは行われていても良さそうなものだけに不思議である。同盟とはいえ、お互い信頼していなかったのか、自国の技術力が、同盟国より優れていると過信していたのかは謎である。
  • もし、日本海軍と共同でイギリス本土を攻撃していたら、イギリスを負かすこともできたかも知れない。しかし、日本からイギリスは遙か彼方であり、寄港できる港が無い状況ではイギリス本土への攻撃は事実上不可能である。

その他[編集]

ナチスの将兵は外国を占領した場合でも、略奪や婦女暴行を行う者は殆ど居なかったという説も有るが、ドイツ兵、親衛隊による婦女暴行、買春は日常茶飯事であった。特に親衛隊の強姦は頻度が高かった[36]

フランスでは、フランスを占領していたドイツの将兵による犯罪は殆ど起こらなかったが、その後フランスを解放したアメリカの将兵による犯罪が多発したという。しかし、調査の結果ドイツ兵は占領国において他国の兵とは全く違う接し方をしてきたというのがドイツ国内における国民感情的な合意となっているだけで、事実としてドイツ兵による強姦は行われていた[37]

動画[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 日本の正規Volkswagenディーラーの記載に従う。

引用[編集]

  1. アドルフ・ヒトラー わが闘争(下)P=371
  2. アドルフ・ヒトラー著 わが闘争 下巻 p=358 2-3行目
  3. アドルフ・ヒトラー著 わが闘争 下巻 p=374 9行目

出典[編集]

  1. a b c d 中村 2007.
  2. a b c d e f g h i j k l m n 村瀬 1987.
  3. アドルフ 2017.
  4. a b アドルフ 2016.
  5. 林 2015, p. 202.
  6. a b 石田 2015, p. 208.
  7. 武田 2010, p. 32.
  8. 武田 2010, p. 34-35.
  9. 武田 2010, p. 36-37.
  10. a b 武田 2010, p. 37.
  11. 石田 2015, p. 228-229.
  12. 石田 2015, p. 229.
  13. a b 石田 2015, p. 234.
  14. ヒトラーはタバコを吸わない”. 喫煙文化研究会. 2017年11月6日確認。
  15. アドルフ 2016, p. 49.
  16. アドルフ 2016, p. 55.
  17. 武田 2013, p. 51.
  18. 武田 2013, p. 40.
  19. 武田 2013, p. 108.
  20. 武田 2013, p. 225.
  21. 武田 2013, p. 157.
  22. リチャード 2015, p. 22.
  23. リチャード 2015, p. 24.
  24. リチャード 2015, p. 36.
  25. リチャード 2015, p. 40.
  26. リチャード 2015, p. 48.
  27. リチャード 2015, p. 64.
  28. リチャード 2015, p. 65.
  29. a b リチャード 2015, p. 67.
  30. リチャード 2015, p. 69.
  31. 石田 2015, p. 242.
  32. 石田 2015, p. 351.
  33. a b 石田 2015, p. 247.
  34. アドルフ 2016, p. 358.
  35. アドルフ 2016, p. 374.
  36. ヘルケ 1996, p. 79.
  37. ヘルケ 1996, p. 78-79.

参考・引用文献[編集]

  • アドルフ・ヒトラー 『わが闘争 上 Ⅰ民族主義的世界観』3143、平野一郎 将積滋訳、株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2017年月10日、改訂36版。ISBN 978-4-04-322401-2
  • アドルフ・ヒトラー 『わが闘争 下 Ⅱ国家社会主義運動』3144、平野一郎 将積滋訳、株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年7月20日、改訂25版。ISBN 978-4-04-322402-9
  • 石田勇治 『ヒトラーとナチス・ドイツ』2318、講談社〈講談社現代新書〉、2015年7月14、初版第3刷。ISBN 978-4-06-288318-4
  • 武田知弘 『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』151、祥伝社〈祥伝社新書〉、2010年3月5日、初版第5刷。ISBN 978-4-396-11151-9
  • 武田知弘 『ナチスの発明』 彩図社、2013年12月9日、初版第3刷。ISBN 978-4-88392-817-0
  • 中村幹夫 『ナチス』21巻、下中直人、平凡社〈世界大百科事典〉、2007年9月1日、改定初版、123-125頁。
  • 林健太郎 『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』27、中央公論新社〈中公新書〉、2009年5月15日、第42版。ISBN 978-4-12-100027-9
  • ヘルケ・ザンダー バーバラ・ヨール 『1945年 ベルリン解放の真実 ー戦争・強姦・子どもー』 株式会社パンドラ、1996年9月20日、初版。ISBN 4-7684-7772-0
  • 村瀬興雄 『ナチス』17巻、相賀徹夫、平凡社〈日本大百科全書〉、1987年9月1日、改定初版、504-509頁。
  • 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』478、中央公論新社〈中公新書〉、2009年5月15日、初版第29刷。ISBN 978-4-12-100278-9
  • リチャード・ベッセル 『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』2329、大山晶訳、中央公論新社〈中公新書〉、2015年9月25日、初版。ISBN 978-4-12-102329-2