ラインラント

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ラインラントは、ドイツ西部を示す地名である。

概要[編集]

ドイツの西部、ライン川の中流域を指す地名である。ノルトライン・ヴェストファーレン州ラインラント・プファルツ州、およびザールラント州の大部分に相当する。主要都市であるケルンデュッセルドルフの周辺はそれぞれドイツ屈指の大都市圏となっており、ドイツで最も人口密度の高いエリアとなっている。

地理[編集]

ライン川流域で、北はオランダとの国境、南はフンスリュック山地タウヌス山地に挟まれた一帯である。また西は、オランダベルギールクセンブルクフランスとの国境付近まで含まれる。ケルンから北はオランダから続く平地だが、ケルンから南はライン片岩山地の山がちな地域となっている。

気候[編集]

西岸海洋性気候(Cfb)に属する地域が多い。夏は釧路並に涼しく、冬は京都・仙台並に温暖である。

歴史[編集]

5世紀以前は、ライン川から西がローマ帝国領であった。ライン川より東では、フランク族のうち北方から南下したグループが、ライン・フランク族としてラインラントに移動してきた。

6世紀頃より、サリー・フランク族が建国したフランク王国領となる。その後フランク王国は分裂し、ラインラントはアウストラシアに属した。アウストラシアからカロリング家が出て、カロリング家がフランク王国の王家となり、特にカール大帝の時代はアーヘンが王国の中心として栄えた。9世紀になると、フランク王国は分裂、ラインラントは中部フランク王国→東フランク王国に属し、以降ドイツの一部となった。

神聖ローマ帝国において、当初ラインラントは北部・中部が下ロレーヌ大公、南部が上ロレーヌ大公の領地となった。時代とともに領邦は分裂していき、ラインラントはケルン大司教領、トリーア大司教領、ベルク公国など多数の小国に分裂した。ラインラントは長年ドイツの中心的地域であったが、オーストリアなど辺境の領主が有力貴族となり、ラインラントは影が薄くなっていった。

18世紀になると、西のフランスでナポレオンが登場する。ライン川から西はフランスに併合され、ライン川東岸もフランス傀儡国家となり、ラインラントの領邦の大半が消滅した。しかしナポレオンの天下も短期間で終わり、1815年のウィーン会議にて、ラインラントはベルリンを首都とするプロイセンの飛び地領となった。近代になると、ラインラント北部でルール炭田での石炭採掘が本格化し、デュッセルドルフエッセンなどが鉄鋼業で栄えた。

その後第一次・第二次世界大戦を経て、ドイツは東西に分裂。西ドイツの首都がボンに置かれ、再びラインラントに首都を置く国が復活した。その後東西ドイツ統一により、ボンは首都の座を失う。しかし、ラインラントはドイツで最も人口密度が高く、特にデュッセルドルフ・エッセン周辺のルール地方はドイツ最大の都市圏であり、経済面では存在感の大きい地域である。

脚注[編集]