独ソ戦
独ソ戦 | |
---|---|
戦争: 独ソ戦 | |
年月日: 1941年6月22日〜1945年5月11日 | |
場所: ソビエト連邦 ポーランド ドイツほか | |
結果: ソビエト連邦の勝利 | |
交戦勢力 | |
ソビエト連邦 ポーランド ユーゴスラビア王国 |
ドイツ国 ルーマニア ブルガリア イタリア王国 フィンランド |
指揮官 | |
ヨシフ・スターリン アレクセイ・アントーノフ クリメント・ヴォロシーロフ ゲオルギー・ジューコフ エドヴァルト・オスプカ=モラフスキ ヨシップ・ブロズ・チトー |
アドルフ・ヒトラー ハインリヒ・ヒムラ― エーリッヒ・フォン・マンシュタイン フレードリヒ・パウルス ゲルト・フォン・ルントシュテット ベニート・ムッソリーニ イオン・アントネスク カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム ホルティ・ミクローシュ |
戦力 | |
約550万人(最盛期) | 約670万人(最盛期) |
損害 | |
2650万人(ロシア当局発表、民間人含む) | 1075万人(民間人含む) |
独ソ戦(どくそせん)とは、1941年6月から1945年5月にかけて行われた戦争。第二次世界大戦の東部戦線である。ドイツを中心とする枢軸国とソ連を主軸とする連合国が戦った。その悲惨な内容から「人類史上最悪の戦争」「絶滅戦争」とも呼ばれる。また、ロシア国内では19世紀のナポレオン戦争になぞらえて「大祖国戦争」の名称も使われる。
開戦まで[編集]
ナチス・ドイツとソ連のイデオロギー[編集]
もともとナチスは共産主義をユダヤ人による陰謀(ユダヤ=ボリシェヴィキズム)として毛嫌いし、政権掌握後は「不穏分子」としてドイツ国内の共産主義者に大弾圧を加え、これをほぼ崩壊に追い込んだ。このほかにも第一次世界大戦後のドイツでは「背後の一突き論」と呼ばれるユダヤ人と共産主義者が革命や破壊活動を行ったせいで、第一次大戦に勝てたはずのドイツ帝国は敗北したという陰謀論が広く信じられていた。なお、これは敗戦の責任を逃れたい旧ドイツ帝国軍が流したデマだと言われている。一方、ソ連内でもナチスをはじめとするファシズムは共産主義の敵であるとして嫌悪されていた。実際に1920年代から1930年代にかけて行われた「大粛清」も大半の容疑者が「ドイツのスパイ」という罪状(ほとんどが冤罪)で処刑されている。以上のことから独ソ両国は絶対に相いれない存在であるとされていた。英仏もドイツがソ連の共産主義がヨーロッパに拡大することを防ぐ防波堤としてナチスドイツの度重なる領土拡張を黙認してきた。
不可侵条約と秘密協定[編集]
領土拡大を続けるナチスは次にポーランドに目を付けた。ヒトラーはポーランドにダンツィヒを割譲するよう要求した。ダンツィヒを獲得すれば、当時ドイツの飛び地であった「東プロイセン」地方と本国が接続できるからである。しかし、ダンツィヒはポーランド唯一の沿岸部であったことや、イギリス・フランスと軍事同盟を結んでいたこと、自軍に対する強い自信などからポーランド首相モシチッキはこれを拒否した。一方でソ連も1919年から1921年まで行われたポーランド・ソビエト戦争によってポーランドにベラルーシからウクライナにかけての広大な領土を喪失しており、ポーランドへの復讐攻撃の機会を狙っていた。更にスターリンは英仏がドイツの反共を黙認していたことにドイツ以上に嫌悪感を抱いていた。このため、反ポーランド・イギリス・フランスで一致した独ソ両国は、ドイツ外相リッベントロップ・ソ連外相モロトフのもとで独ソ不可侵条約を締結した。犬猿の仲と思われてきたドイツとソ連の同盟は世界中に衝撃を与え、英仏の「融和外交」の失敗を象徴する出来事になった。この「独ソ不可侵条約」は表向きはお互いに軍事侵攻しないという名目だったが「ポーランドおよびバルト三国を独ソ両国で分割統治する」という秘密協定も存在していた。
ポーランド侵攻と西部戦線[編集]
1939年9月1日、ドイツはポーランドへの軍事侵攻を開始。イギリス・フランスはこれに反発してドイツに宣戦布告を行い第二次世界大戦がはじまった。強力なドイツ機械師団と電撃戦に騎馬隊を主力する旧式のポーランド軍はなすすべもなく敗北を続け、9月9日から9月18日までのブズラの戦いで叩きのめされ反撃が不可能となった。9月17日にはソ連赤軍もポーランド領内への侵攻を開始した。ポーランド軍も必死に抵抗するものの多勢に無勢であった。9月28日には首都ワルシャワが陥落し、翌月にポーランドは降伏した。秘密協定の通りポーランドはドイツ・ソ連によって分割統治されこととなった。なお、ソ連はこの行為により国際連盟から追放されている。ドイツは続いてフランスも攻撃、電撃戦と「マンシュタイン・プラン」、エルヴィン・ロンメルをはじめとする名将の活躍によりにより第一次大戦で4年かけても攻略でなかったフランスをわずか6週間で降伏に追い込んだ。止まらないドイツはイギリスにも攻撃を加えた(バトル・オブ・ブリテン)が、島国であるため電撃戦を行うことができず、最新兵器であるレーダーによる迎撃で爆撃も行えず戦線は膠着状態に陥った。ヒトラーはイギリスを攻め続けても成果は上がらないと考え、不可侵条約を結んでいたソ連の攻撃へと準備を進めていくこととなる。
ドイツの不審な動き[編集]
一方、東部戦線では、ポーランドを分割占領したドイツ軍とソビエト軍であったが、占領後間もなくソビエト軍側の占領地域にドイツ空軍の偵察機が頻繁に領空侵犯を行うようになった。また、両国の境界線付近のドイツ占領側にドイツ陸軍の戦車部隊が次々と到着し、ソビエト軍側が不信感を抱かせた。また、レニングラードでは、軍港でソ連の技術者とともに巡洋艦の整備に当たっていたドイツの技術者が4月頃から荷物をまとめて帰国し、1941年6月15日には最後の一人も帰国した。さらに翌日にはドイツの船舶も姿を消したことで、ソビエト軍はドイツとの軍事衝突が近いものと察していたが、ドイツを刺激することを恐れたスターリンは反撃の準備を禁じた。6月21日にようやく国防人民委員会がドイツの攻撃の可能性があることを各部隊に通知したが、既に手遅れで、その数時間後にドイツの攻撃が開始された。
戦争の経過[編集]
バルバロッサ作戦[編集]
1940年12月に、ヒトラーはドイツ国防軍へソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」の準備を命じた。なお、作戦名の「バルバロッサ」は神聖ローマ帝国のフレードリヒ1世のあだ名から取られている。この情報はまもなくソ連指導部に届いたものの、スターリンに粛清されることを恐れた幹部は彼に直接その旨を伝えることができず、赤軍もスターリンにドイツ国境の警備強化を進言できなかった。これらの要因により、ソ連軍はドイツ軍へのまともな対策が出来ずにいた。そして1941年6月、ヒトラーは「バルバロッサ作戦」を発動し、400~500万人のドイツ軍が一斉にソ連領内になだれ込んだ。初日の爆撃により赤軍の航空部隊は壊滅し、陸戦でも戦車部隊の電撃戦に圧倒され、次々とソ連領を占領。7月にはスモレンスクが、8月にはキエフも陥落した。9月に入るとレニングラードも包囲されてしまった。慌てたスターリンは死守命令を連発し、督戦隊を設置して撤退した兵士の処刑を行った。しかし、これにより撤退が遅れたソ連軍は次々とドイツ軍に包囲殲滅され、355万人もの捕虜を出す大損害を被った。一方でドイツ軍もソ連軍の反撃により少なからず損害を出している。
タイフーン作戦[編集]
ソ連軍に大損害を与えたヒトラーは、1941年10月に「タイフーン作戦」を発動した。この作戦によりドイツ軍はさらなる大攻勢を行いソ連の首都モスクワからわずか150kmの地点まで到達した。しかし、これと同時に天候が悪化したため地面がドロドロとなった。これによりドイツの機械師団の前進もできなくなってしまい、既に伸びきっていた補給線が崩壊寸前に陥ってしまった。なお、ソ連軍が焦土作戦を展開したため、現地からの徴発も不可能となった。11月に入ると幾分か天気が改善されたためドイツ軍は再び進軍を再開するも、冬将軍の到来で装備の凍結・故障し、スターリンが行った軍事パレードや増員により赤軍の士気が上がっていたこと、極東から移動してきた精鋭部隊[注 1]の参戦により攻撃は頓挫しモスクワを占領できず、赤軍に大きく押し戻されてしまった。こうしてドイツ軍の短期決戦の試みは失敗に終わり、戦争は泥沼化していくこととなる。
スターリングラードの戦い(前)[編集]
モスクワ防衛に成功したスターリンは調子に乗ってしまい軍参謀本部の反対を押し切って全赤軍にドイツ軍への反撃を命じた。しかし、首都攻略を失敗したとはいえドイツ軍は依然として強大で赤軍の攻撃を跳ね返した。ヒトラーはこの勝利に乗じて再び攻勢に踏み切るが、タイフーン作戦での物資欠乏の反省から石油資源が豊富なコーカサス地方の占領を優先することとした。1942年6月、ドイツ軍は「ブラウ作戦」を発動しソ連南部への攻撃を開始した[注 2]。スターリンはタイフーン作戦時の経験からドイツ軍は再び首都を攻撃してくると考え、モスクワの防衛を固めていたがそれ以外の防御はおろそかにしていた。このためドイツ軍は快進撃を続けたもののソ連軍は素早く行動したため戦争当初見られた包囲殲滅は達成できなかった。一方でドイツ軍はコーカサスの主要都市スターリングラード(現:ヴォルゴグラード)にも到達した。当初の作戦ではスターリングラード攻略はそこまで重要視されていなかったが、ヒトラーはソ連の最高指導者の名を冠した街を攻略できれば敵味方に対する宣伝になると考えたため作戦を変更。ドイツ軍は大勢力を持ってスターリングラードに総攻撃をかけた。8月の攻撃開始からわずか数週間で街の90%が枢軸軍に占領されたが、ソ連軍のスナイパーはがれきの下や廃墟に隠れて枢軸軍に対する破壊活動を行い、民間人もこれに協力した。激怒したドイツ軍は火炎放射器で避難していた民間人ごと市街地を徹底的に破壊し、見せしめとしての処刑も行った。しかしこれによりかえってソ連軍の士気は高まり、抵抗もより激しくなった。
スターリングラードの戦い(後)[編集]
ソ連軍の反撃によりドイツ軍の攻撃が停滞する中、1942年10月に入るとドイツ軍は物資の欠乏に悩まされるようになった。ナチスの航空大臣ヘルマン・ゲーリングはスターリングラードへの空輸を豪語していたが、実際は必要量の15パーセント以下しか空輸できていなかった。やがて赤軍が付近の飛行場を占領したため航空機による物資の輸送は完全に不可能となった。ソ連軍は大軍を編成して反撃を開始したため、スターリングラードのドイツ軍を指揮するパウルス将軍はヒトラーに撤退の許可を要請したが、ヒトラーはこれを拒否した。その後、「ドイツ軍最高の頭脳」と称されたマンシュタイン将軍が救援に向かい、パウルスへ撤退・合流を呼びかけたが優柔不断な彼は散々迷った挙句これを辞退。11月23日にはドイツ軍は完全にソ連軍に包囲されてしまった。ヒトラーはパウルスが助けを求めても「兵士とともに玉砕せよ」といった精神論を突き付けるばかりで彼を助けようとしなかった[注 3]。追い詰められたパウルスはソ連軍への降伏を決意。1943年2月、スターリングラードのドイツ軍は赤軍に全員降伏した。この一連の戦いでドイツ軍は150万人の兵士とその他多数の戦車・航空機・大砲を失った。これは当時のドイツ軍総戦力の4分の1に匹敵する。これにより独ソ戦においてドイツは完全に主導権を喪失し趨勢がほぼ決定した。余談であるが、後にドイツは当時捕虜となっていたスターリンの息子ヤーコフ・ジュガシヴィリとパウルス将軍の捕虜交換を提案したが、スターリンはこれをバッサリ拒否している。後にヤーコフはドイツの捕虜収容所で謎の死を遂げている。
クルスク戦車戦[編集]
スターリングラードの戦いで大敗北を喫したドイツ軍であったが、戦争自体の敗北が確定したわけではなかった。マンシュタイン将軍は勢いに乗る赤軍に対して巧みな防衛線を展開し、1943年3月の第三次ハリコフ攻防戦ではソ連軍を押し戻し、一時的にハリコフを奪還することに成功した。さらにこの攻撃によりソ連軍占領地の突出部がクルスク付近に発生した。ヒトラーはこのクルスク突出部を南北から挟み撃ちにしてソ連軍を包囲殲滅することを主張した。この結果ドイツ軍がクルスクに向かうこととなったが、途中ヒトラーが新兵器の開発が行われるまで攻撃を中止するように指示した。攻撃を中止すればソ連軍がクルスクに防衛陣地を気付くのは目に見えているわけで、マンシュタインはじめドイツの将軍たちはこれに反対したがヒトラーの決定を覆すことはできなかった。結局8月に入ってようやくドイツ軍は攻撃を開始するものの案の定ソ連軍の屈強な抵抗により大損害を被ってしまった。これにより僅かにあったドイツの勝利の希望は絶ち消えることとなった。なお、この戦いは両軍合わせて6000両余りの戦車が参加したため、「史上最大の戦車戦」などと呼ばれる。また、近年の研究で南側のドイツ軍がわずか3両の損害でソ連の230両の戦車を撃破するなど実は互角な戦いであったことが明らかとなっている。
ワルシャワ蜂起[編集]
1944年6月、ソ連はドイツ軍に対し「バグラチオン作戦」を発動した。この大攻勢によりドイツ軍は占領地域のほとんどを失い、7月には独ソ開戦当初の戦線にまで押し戻された。ポーランドの首都ワルシャワ目前にまで迫った赤軍はラジオを通じてポーランドのパルチザンに一斉蜂起を呼びかけた。これに応じ、8月1日にワルシャワ市内で「ポーランド国内軍」が一斉に蜂起し、ドイツ軍を襲撃した。ドイツ軍は混乱し、一時は市の大部分が蜂起軍の占領下に入ったが、やがて物資・装備の差が物を言うようになり、徐々に蜂起軍は追い詰められていった。一方でソ連軍は、戦後ポーランドを支配下に置くつもりであったため、ポーランドの自主独立を求める蜂起軍を好ましく思わず自分達で蜂起を呼びかけたにも拘らず一切援助は行わなかった。こうしたこともあり9月にはポーランド国内軍は壊滅し、ワルシャワ蜂起はドイツ軍の勝利で終わった。なお、蜂起終結後ヒトラーは報復としてワルシャワの徹底的な破壊と市民の虐殺を命じ、約22万人が殺害されたと言われている。当時のドイツ軍による残虐行為は映画「戦場のピアニスト」に詳しく描かれている。余談であるが、1945年1月に入ってようやくソ連軍はワルシャワを解放したものの、この際蜂起軍の生き残りを片っ端から処刑したそうである。あのねぇ・・・
参考文献[編集]
- 『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』 - 岩波新書
- 『独ソ戦大全』 - 晋遊舎