パリ
パリ(Paris)とは、フランスの首都である。セーヌ川中流沿岸のパリ盆地中央の標高65メートルに位置する大都市である。ヨーロッパでは芸術の都、花の都として知られている。英語ではパリス、漢字では巴里と表記される。パリとはこの地に住んでいた先住民パリシー(田舎者を意味する)族からちなんで名づけられた名前である。人口は1999年時点で212万3000人。
概要[編集]
紀元前3世紀にケルト人のパリシー族がセーヌ川の中洲にあるシテ島に定住したのが起源とされている。紀元前52年にローマが当地を占領し、ここにルテチアの名で植民都市を建設した。ローマはセーヌ川左岸に市街を拡張して行政、文化施設を建設し、都市としての機構が整備されてゆく。
その後、ローマが衰退してフランク王国の支配下に入り、508年にフランク王国の首都に定められた。9世紀にノルマン人の侵攻を受けているが、パリの都市の守備は固く撃退している。987年にフランク王国が断絶してカペー朝が成立すると、同王朝の首都に定められる。以後、パリはフランス王国の歴代王朝の首都として拡大・繁栄を遂げていった。カペー朝の名君として知られるフィリップ2世の時代にパリ大学が創設され、城壁も大いに整備されている。13世紀になるとスコラ学者の活動拠点の1つとして学問の中心地となり、その一方で商業の活性化により建築活動も活発化し、ヨーロッパにおける「学問と芸術の都」のイメージが定着していく起源となる。
その後、イギリスとの百年戦争で現れた名君・ヴァロワ朝のシャルル5世の時代にもイギリスに対する防衛強化の必要性から、パリの市街地が拡張され、同時に人口が集中的に集められて当時としては20万人を数える西欧随一の大都市に成長した。
その後もフランスの歴代国王などにより繁栄を遂げてゆくが、フランス第2帝政で皇帝として君臨したナポレオン3世の時代である1853年に、パリは大規模な都市改造が行われ、これによりほぼ現在のパリ市街が形成されることになる。
ただ、華麗な都市としてのイメージが強いが、百年戦争後期にはイギリスに占領され、宗教戦争に巻き込まれて興廃したり、フランス革命では流血の都市として多くの処刑が行なわれているなど、このパリは結構戦争に巻き込まれて多くの血が流されている。1871年にはパリ・コミューンの舞台となり、1939年に第2次世界大戦が開始されると、フランス軍はナチス・ドイツ軍に当初は負け続けて、1940年にパリはナチスの支配下に置かれた。1944年に連合軍のノルマンディー上陸作戦が行なわれると、パリは解放されている。
現在では西欧随一の大都市として君臨しているが、華やかなイメージの影に多くの血が流されている都市でもあり、また歴史が長いため多くの観光名所も存在している。
気候[編集]
緯度は北緯48度で、北海道よりも北であるが、西岸海洋性気候である。
政治・経済[編集]
パリは1871年から1977年の106年間にわたり官選知事[注 1]が任命されるだけで、市長は選任されなかった。
大都市ゆえに、ユネスコ、経済協力開発機構(OECD)、国際婦人連合(ICW)、国際商業会議所(IOC)、博覧会国際事務局(BIE)、国境なき記者団(RSF)などの本部が設置されている。
自動車のプジョー、小売業のカルフール、銀行のクレディ・リヨネ、生保のアクサがそれぞれ本社を設置している。
文化・スポーツ[編集]
国際博覧会[編集]
国際博覧会がたびたび催されている(1855年・1867年・1878年・1889年・1893年・1931年・1937年・1947年)。
音楽[編集]
フランス国立管弦楽団が1934年に、パリ管弦楽団が1967年に当地で創設されている。両楽団の本拠地所在地でもある。また、若手音楽家の登竜門として知られるロン・ティボー国際音楽コンクールが1947年から当地で開催されている。
スポーツ[編集]
- オリンピック - 第2回オリンピック(1900年)・第8回オリンピック(1924年)。
- サッカー - 第3回サッカーW杯(1938年)。
- ユニバーシアード - 第1回ユニバーシアード夏季大会(1957年)。
- 世界陸上競技選手権 - 第9回世界陸上競技選手権(2003年)。
ファッション[編集]
- パリ・コレクション - ファッションの新作発表ショーが開催される。
観光名所[編集]
関連項目[編集]
- スポーツ
- 施設
- 美術・音楽教育機関
- テレビ局
- ラジオ局
- Radio FG
- NRJ
- France Inter
- 催事
- 出来事
- 化学
- 舞台とした作品
注[編集]
- ↑ 日本で言えば、戦時中の東京都長官に相当。
外部リンク[編集]
- 公式
- 日本政府
- 観光