ニュルンベルク裁判

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ニュルンベルク裁判(にゅるんべるくさいばん)とは、第二次世界大戦中に行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁くために行われた裁判である。これに並行して日本では東京裁判が行われた。

概要[編集]

戦争中、ナチス・ドイツのパルチザン容疑者の処刑、ホロコーストなど残虐行為が明らかとなりつつあった。そんな中、1943年に連合国によって戦争犯罪委員会が設置され、戦後の裁判に向けての動きが始まった。当初は戦争中の裁判も考えられたが、捕虜が枢軸軍による報復を受けることを恐れて実施されなかった。1945年5月になるとドイツが降伏したため裁判の開催が正式に決定した。判事は戦勝国であるアメリカイギリスフランスソビエト連邦から2人ずつの計8人が選ばれた。検察側も連合国側の人間で占められ、ドイツが一方的に裁かれる形となった。被告人はナチス政権の主要人物など計24人だが、総統アドルフ・ヒトラー武装親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラー等は既に自殺していたため裁かれなかった。1945年11月に開廷し、1946年10月に全被告の判決が確定した。

なお、ソ連もドイツと同レベルの戦争犯罪を行っていたが裁かれることは一切なく、カチンの森大虐殺事件に至ってはドイツに罪をなすりつける有様であった。こうしたソ連の犯罪が明らかになるのは冷戦終結後である。米英軍が行ったドレスデン爆撃などの残虐行為も無罪放免となった。

被告[編集]

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マルティ・ボルマン ()

親衛隊大将かつ国家社会主義ドイツ労働者党の党官房長で、末期にヒトラーが廃人状態となった際は事実上のナチスのトップであった。上司には媚びへつらう一方で部下には高圧的に接したため、裁判中は他の被告から酷評されている。ベルリン陥落直後の混乱に乗じて失踪したため欠席裁判が行われたが、後に総統地下壕脱出の際に砲撃で重傷を負い、青酸カリを飲んで死亡したことが明らかとなっている。

カール・デーニッツ

別名『大提督』。ドイツ海軍を率い、新型潜水艦Uボートを率いた攻撃を敢行しイギリス海軍に大打撃を与えた。また、戦争末期にはソ連軍から逃れようとするドイツ人を西側に避難させる救出作戦も遂行した。一方で、と呼ばれる撃沈した敵船の民間人救助を行わないよう部下に命令したことや、捕虜を処刑したことが問題となった。イギリスとソ連の判事は極刑を要望したが、戦功や無罪を主張するアメリカの意向を考慮した禁固刑となった。

ハンス・フランク ()

ドイツ法律アカデミーの総裁を務め、第二次世界大戦時にポーランド総督に就任。ポーランド人とユダヤ人に大弾圧を加え、ポーランドのユダヤ人の約90%の虐殺に関与した。戦争末期は引きこもるようになり、ひたすら神に許しを乞ったそうである。しかし、戦後アメリカ軍に拘束された際に正体がばれてしまいボコボコにされてしまった。裁判中はナチスおよび自身による戦争犯罪を認めて改心したため、連合国の判事を驚かせた。それでも数々の悪行から極刑判決となった。

ヴィルヘルム・フリック ()

戦前はナチス政権の内務大臣を務め、ユダヤ人から公民権を剥奪したニュルンベルク法、ヒトラーの独裁体制を確立した全権委任法といったナチスドイツの悪名高い法律の制定に関わった。さらに、戦中はベーメン・メーレン保護領(チェコ)の大管区指導者として領内の統治に当たったが、実際は形式的なものに過ぎなかった。裁判ではほとんど無口だったため「最も目立たない被告」と呼ばれた。

ハンス・フリッチェ ()

ニュースキャスターかつジャーナリストとしてナチス宣伝省で働いた。上司である宣伝大臣ゲッぺルスにも信頼され、ゲッぺルスに直言を申し渡しても咎められないほどの関係であった。彼はナチス政権の大物でも、主要人物でもなかったが、彼を捕らえたソ連のプライドによって戦犯に祭り上げられてしまった。ソ連は彼がホロコーストを扇動したと言いがかりに近い主張したが、西側諸国の反応は冷ややかであった。

ヴァルター・フンク ()

戦前は大企業とナチスの橋渡しを勤めたビジネスマンである。ヒトラーの経済顧問も勤めた。戦争が始まると経済大臣に就任し、ユダヤ人の強制労働・虐殺に関与した。さらに、殺害したユダヤ人の財産を自身の銀行口座に送らせていたことも発覚し、判事の彼へのイメージは最悪となった。

へルマン・ゲーリング ()

航空大臣、ドイツ空軍総司令官、ヒトラーの後継者。一時期はモルヒネ中毒の引きこもり状態に陥っていたが裁判が始まると復活し、巧みな弁舌で連合軍の矛盾点を次々と指摘した。論破されたアメリカ判事が激怒したため弁論が中断されることもあった。一貫して反抗的な態度を示し、ホロコーストの証拠映像が流された際も退屈そうな様子を見せたため批判が相次いだ。

ルドルフ・ヘス ()

古参ナチス党員で、ヒトラーとも親しく「我が闘争」の出版にも携わった。ナチス政権獲得後は「副総統」というヒトラーに次ぐNo.2の地位に着いた。しかし、彼自身が権力闘争が苦手だったこともあり次第に権限を他の党員に奪われ、1939年の開戦時には政権の中枢から外されていた。そんな中、彼はヒトラーがイギリスと和平を結びたがっていると知り、チャーチルと和平交渉をするべく単身イギリスに渡った。当然、英国政府からは全く相手にされず収監されてしまい、終戦まで監禁生活を送った。

アルフレート・ヨードル ()

ドイツ国防軍の作戦部長を勤めた。裁判では米英軍の特殊部隊及び赤軍政治将校の処刑を許可する「コマンド指令」「コミッサール指令」を下したことが問題となった。他にも「バルバロッサ作戦」など多くの戦争計画立案に携わったとされている。ヨードルは「自分は軍人としての責務を全うしただけ」と主張した。

エルンスト・カルテンブルンナー ()

国家保安本部(RSHA、エルエスハア)の最高責任者。親衛隊ではヒムラーに次ぐ最高幹部であり、戦争捕虜の殺害やユダヤ人の強制収容所への移送に関与した。因みに、彼はアメリカ軍に捕まった際に偽名を名乗っていたため普通のドイツ軍人と思われていた。しかし、愛人が彼の名前を大声で叫んだため正体がバレてしまい戦犯として裁かれる羽目となった。

ヴィルヘルム・カイテル ()

ドイツ国防軍の元帥。ドイツ軍の中では比較的早くからナチスに迎合し、ヒトラーに心酔していた。このため、ユダヤ人処刑などの数々の命令発布に署名したことが問題となった。裁判が始まるとカイテルは涙を流して罪を認めたが、後にゲーリングの命令でこれを撤回した。

グスタフ・クルップ ()
ロベルト・ライ ()
コンスタンティン・フォン・ノイラート ()

ナチス政権で外相となり、ドイツの軍拡に貢献した。しかし、リッベントロップに追い落とされてクビにされてしまい、チェコのベーメン・メーレン保護領総督の座に就いたが、ここでも穏健な統治によりヒトラーの失望を買って解任された。しかし、結果的に裁判ではこうした穏健な統治が救いとなった。

フランツ・フォン・パーペン ()
エーリヒ・レーダー ()
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ ()

ナチスの外務大臣。ノイラートの後を継ぎ、独ソ不可侵条約や日独伊三国同盟の締結に携わった。こうした戦争犯罪に加え、イタリアなどの同盟国へユダヤ人の引き渡しを要求していたことが争点となった。余談であるが、彼の長男であるルドルフは親衛隊大尉にまで昇進し2019年まで存命だったようである。

アルフレート・ローゼンベルク ()

政治家、思想家。ナチスの思想書の一つである「二十世紀の神話」も執筆した。東部占領地域の統治や、リッベントロップと共に外交政策にも関与した。

フリッツ・ザウケル ()

「労働力配置総監」および「テューリンゲン大管区指導者」。ヨーロッパの各地から300~500万人の外国人労働者を強制連行した罪に問われた。

ヒャルマル・シャハト ()

ライヒスバンク総裁としてナチス政権獲得時の経済政策や再軍備に携わった。戦争中はヒトラー暗殺計画に加担し、逮捕・収監されていた。

バルドゥール・フォン・シーラッハ ()

ナチス青少年団ヒトラー・ユーゲント指導者。1940年にヴィーン大管区指導者に就任し、管区内のユダヤ人迫害に関与したとされる。

アルトゥル・ザイス=インクヴァルト ()
アルベルト・シュペーア ()

戦前は建築家としてナチスの会場建設などに従事した。ヒトラーと個人的に親しい関係で、戦中は「軍需大臣」に任命される。外国人労働者の強制労働における最高責任者。戦争末期にはヒトラーによるインフラ破壊命令の妨害も行った。

ユリウス・シュトライヒャー ()

世界最大級の反ユダヤ新聞「シュテュルマー」の発行者。

判決[編集]

氏名 共同謀議 平和に対する罪 戦争犯罪 人道に対する罪 判決
ボルマン 無罪 不起訴 有罪 有罪 死刑
デーニッツ 無罪 有罪 有罪 不起訴 禁固10年
フランク 無罪 不起訴 有罪 有罪 死刑
フリック 無罪 有罪 有罪 有罪 死刑
フリッチェ 無罪 無罪 無罪 不起訴 無罪
フンク 無罪 有罪 有罪 有罪 終身刑
1957年釈放
ゲーリング 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑
執行前に自殺
ヘス 有罪 有罪 無罪 無罪 終身刑
ヨードル 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑
カルテンブルンナー 有罪 不起訴 有罪 有罪 死刑
カイテル 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑
クルップ - - - - 高齢のため釈放
ライ - - - - 公判前に自殺
ノイラート 有罪 有罪 有罪 有罪 禁錮15年
パーペン 無罪 無罪 不起訴 不起訴 無罪
レーダー 無罪 有罪 無罪 不起訴 終身刑
リッベントロップ 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑
ローゼンベルク 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑
ザウケル 無罪 無罪 有罪 有罪 死刑
シャハト 無罪 無罪 不起訴 不起訴 無罪
シーラッハ 無罪 不起訴 不起訴 有罪 禁錮20年
インクヴァルト 無罪 有罪 有罪 有罪 死刑
シュペーア 不起訴 不起訴 有罪 有罪 禁錮20年
シュトライヒャー 無罪 不起訴 不起訴 有罪 死刑

裁判に対する批判[編集]

  • 先述のように、連合軍の行った数々の戦争犯罪については一切追及されず、ドイツ側に全責任が押し付けられた点。例えば、終戦前後に行われたドイツ人追放 ()では1200万人以上のドイツ人が強制移住となり、約200万人が死亡、約200万人が強制収容所へ連行されたと言われている。やってることはホロコーストと一緒である。
  • 判決の公平性を欠いている点。シュトライヒャー・フリッチェは両方とも「虐殺を扇動した」罪で起訴されたにもかかわらず、前者は死刑、後者は無罪となっている。
  • ソ連が捕虜収容所での死亡人数を大幅に盛っていた点。