歓喜力行団

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歓喜力行団(かんきりっこうだんドイツ語:Kraft durch FreudeKdf)とは、かつてナチ党政権下のドイツ国に存在した組織。ドイツ各地の労働組合が合併して誕生したドイツ労働戦線の下部組織であった。

前史[編集]

ナチ党は労働者からの支持を得るため、様々な政策を行った。その中で、以前の労働組合・職員組合・経営者組合などが一体化した「ドイツ労働戦線」なる組織を設立した。

労働者と経営者が同じ組織に所属するようになったことで、資本家と労働者の間の対立は解消された。各地の職場には労働戦線の本部から労働管理官が派遣され、労働者の賃金や労働条件が公平に決められるようになった。

こうして、多くの労働者が短期・長期の休暇を取りやすくなり、彼らの余暇の時間が増大した。具体的には、7日間~12日間の休暇を取ったドイツ人労働者の割合は、1931年には48%だったが、1936年には71%にまで向上した。

余暇の時間に労働者の英気を養うような娯楽を提供し、ついでにさりげなくナチズム的な価値観を植え付ける…

そんな目的を持って、歓喜力行団が設立された。

事業[編集]

以下、歓喜力行団の様々な事業について述べる。

旅行[編集]

歓喜力行団は、日帰りから数週間にわたるクルーズ旅行に至るまでさまざまな旅行を企画し、比較的低価格で労働者に提供していた。

日帰り旅行[編集]

旅行事業のなかで、最も参加者が多かったのが日帰り旅行であった。参加者らは集団で都市近郊の森へ向かい、ハイキングやピクニックを行った。

1938年までに約410万人が参加した。郷土愛を涵養する目的があったといわれる。

国内パッケージツアー[編集]

こちらにも、多くのドイツ国民が参加した。行き先には、中世からの町並みを残すローテンブルク、世界的大都市のベルリンミュンヘンフランクフルト、自然の豊かなバイエルンフランケン、変わったところではフォルクスワーゲンの大工場のあるヴォルフスブルクなどが選ばれた。これら行き先には、「ドイツの伝統文化に触れ、ドイツ民族としての自覚を図る」「大都市や大工場の見学を通して、ドイツの国力の強さを実感させる」など、歓喜力行団の政治的思惑が反映されていた。

鉄道などの長距離移動手段はすべて国有化されていたため、ツアー参加者は交通費の大幅な値引きを受けられたという。1937年の一年間だけで約140万人が参加した。

クルーズ旅行[編集]

歓喜力行団は専用の客船をこしらえ、ドイツを発着する複数のクルーズ旅行を企画した。目的地として、北海方面、大西洋に浮かぶポルトガルアゾレス諸島地中海沿岸のイタリアギリシャマグリブ諸国などが設定されていた。

クルーズ全体を通して、「ドイツ民族の団結」「ドイツ民族の優越性」が強調された。船内の等級区分は廃止され、参加者全員が同じ内装の船室をあてがわれた。起床時間は毎日一律で、起床直後には参加者全員で体操をさせられ、その後の国旗掲揚の儀式への参加を強いられた。

ドイツ人の優位性を参加者に示すため、ギリシャやポルトガルなど、ドイツよりも貧しく生活水準が低い国への上陸観光はしばしば行われていた。一方、生活水準がドイツ並みである北欧諸国への上陸は許されず、北海方面のクルーズはもっぱら船から陸地を眺めるのみであったという。

1939年の一年間で、14万人が参加した。クルーズ旅行の参加費は国内パッケージツアーに比べれば高額で、参加者は富裕層に限られていたのではないかとの指摘がある。

終業後の余暇[編集]

ナチ党政権下で、労働者の労働環境はいくらか改善され、帰宅時間が早まった。そこで、終業後の余暇、現代風に言えばアフターファイブの時間の娯楽が提供されるようになった。

平日のコンサートや演劇のチケット代、美術館の入場料などが国費で大幅に値引きされるようになり、ハイカルチャーに縁のなかった労働者らがこれらに殺到した。ドイツ民族としての自覚を持たせるため、コンサートや劇には伝統的な民謡・民話が多く取り入れられた。

1937年だけで、のべ3832万人が参加した。

自家用車の購入支援[編集]

1930年代後半のドイツでは、政府によってアウトバーンの建設が大々的に宣伝されていたり、モータースポーツのプロ選手が過度に神格化されていたりしたため、車好きが高じて自家用車の保有を望む人が増えていた。ところが、当時の自家用車は、価格からして庶民に手の届く代物ではなかった。

そこで、歓喜力行団はフォルクスワーゲン(大衆車)の生産を開始。「毎週5マルクを200週間、合計1000マルク郵便貯金すれば自家用車が手に入る」とするキャンペーンを展開した。ちなみに、当時の5マルクは現在の価値で約8420円、1000マルクは約168万4000円である。

このキャンペーンには約33万人が参加し、中には1000マルクを完納した人もいたという。ところが、戦争の開始とともにフォルクスワーゲンの工場や完成車両は軍に接収されてしまい、ナチ党政権下で自家用車を受け取れた人はほとんどいなかった。

ちなみに、戦後フォルクスワーゲンが西ドイツの民間企業として再出発した際、同社は西ドイツ在住の元キャンペーン参加者に対し、積立金額に応じて新車の購入代金を割り引く措置をとったという。

表彰[編集]

1939年、人道的な活動を評価し、国際オリンピック委員会は歓喜力行団にオリンピックカップを授与した。

日本への影響[編集]

ドイツと同じく枢軸国だった日本でも、歓喜力行団を模倣した組織「日本厚生協会」が設立された。ところが、精神論に傾倒し、国民の支持が得られなかったため、短期間で解散した。