お市の方

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お市の方(おいちのかた、天文17年(1548年) - 天正11年4月24日1583年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性小谷の方(おだにのかた)、小谷殿(おだにどの)とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。

経歴[編集]

父は尾張守護代であった織田信秀で、母は不明。父はお市が満3歳の時に死去しているため、14歳年上の兄・信長に養われた。

永禄6年(1563年)に信長が近江浅井長政同盟を結ぶために、お市は長政の正室として兄の命令で嫁ぐことになった。夫の長政とは夫婦円満で、2男3女の子宝に恵まれた。しかし元亀元年(1570年)に越前朝倉義景を信長が攻めると、浅井長政とその父・久政亮政以来の同盟関係を重視して義景に味方して信長と敵対し背後を襲撃したが、信長は命からがら京都まで逃走した(金ヶ崎撤退戦)。以後、長政は信長と戦い続けるが、同年の姉川の戦いで織田・徳川連合軍に撃破されると小谷城に籠城することになり、以後は信長の家臣・羽柴秀吉の包囲を受けるようになった。結局、天正元年(1573年)に小谷城は織田軍の攻撃を受けて落城し、お市は落城直前に長政の計らいで3人の娘と共に城外の信長の下に送られた。こうしてお市は未亡人となる。

以後は信長の庇護を再度受けていたが、天正10年(1582年)に信長が明智光秀の謀反で討たれると(本能寺の変)、その後の清須会議を経て信長の3男・信孝の仲介で織田氏の筆頭家老である柴田勝家再婚し、3人の娘を連れて越前に赴いた。だが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて柴田軍が壊滅し、北ノ庄城羽柴軍に包囲されると、運命を悟った勝家はお市に3人の娘を連れて城外に出て秀吉を頼るように勧めたが、お市は3人の娘を城外に出すことは承諾したが、自らが城外に出ることは拒否した。

そして北ノ庄城が羽柴軍に包囲される中でお市は勝家と共に寝室で語らい合い、その中で辞世を詠んだという(『太閤記』)。

「さらぬだに、うち寝るほども、夏の夜の、別れをさそふ、ほととぎすかな」[1]

その後、お市は勝家と共に北ノ庄城の天守閣自害した。享年36。

人物像[編集]

お市は絶世の美女であったと伝わっている。後年に長女の淀殿が母の供養のために高野山に奉納した肖像画を見ても、気品に満ちた細面の美女であることがよくわかる。

また聡明な女性であったと言われており、信長が金ヶ崎の退き口で長政の裏切りをなかなか信じようとしなかったとき、お市から小豆の入った袋が届いたため、その裏切りを信長が確信したと言われている。

脚注[編集]

  1. 自害する前にさりげなく寝てしまった自分に「この俗世のの夜に早く分かれて来なさい」と、あの世からの使いのほととぎすが盛んに誘っている事ですよ。それに誘われて私は喜んで早くあの世へ行きますよ」を意味する。

お市の方を主題とする作品[編集]

小説
漫画
テレビドラマ
テレビアニメ
ゲーム

お市の方が登場した関連作品[編集]

小説
映画
テレビドラマ

外部リンク[編集]