谷崎潤一郎
谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886年7月24日‐1965年7月30日)は、日本の文豪。
人物[編集]
東京日本橋に長男として生まれる。父は入り婿で、母方の祖父が谷崎家を興隆させた人物で、近江国の出身だったとされ、潤一郎は長男として乳母日傘で育てられた。だが祖父の死によって家は没落し、次弟でのち作家・英文学者となった精二のほか、多くの弟妹を抱えた谷崎家は貧窮し、潤一郎も進学が危うくなったが、成績が良かったため学校の先生の斡旋で金持ちの家の家庭教師のアルバイトをしながら中学校へ進み、第一高等学校から東京帝国大学文学部国文科へ進んだ。在学中に、和辻哲郎、木村荘太らとともに、第二次『新思潮』を発刊し、そこに載せた戯曲「誕生」が処女作となった。これは「栄花物語」に取材したもので、谷崎は当初から日本趣味であり、はじめは西洋趣味だったという一昔前の解説は間違いである。
三作目となった小説「刺青」を永井荷風に賞賛され、『中央公論』の滝田樗陰に認められて華々しく世に出たが(大学は中退)、その後十年ほどはスランプが続いた。30歳の大正5年(1916)に十歳下で前橋出身の千代と結婚し、翌年長女鮎子が生まれたが、これが谷崎の唯一の実子である。それから谷崎は、千代の実妹であるせい子と同居した際に性的関係をせい子と持ち、千代との離婚を考える。年少の友人の佐藤春夫は同情が恋愛となって千代を譲るよう頼み、谷崎はいったん承諾するが惜しくなって前言をひるがえし、怒った佐藤と絶交する。この時谷崎が小田原に住んでいたことから、小田原事件と呼ばれる。
一方大正時代には映画製作に手を出し、企業がカネを出して作った大正活映という会社の脚本部に所属して、娘の鮎子が出演する「雛祭の夜」のほか、泉鏡花原作の「葛飾砂子」などの制作に携わり、岡田時彦、内田吐夢に芸名をつけたのも谷崎で、時彦の娘の岡田茉莉子がのちデビューした際も芸名をつけている。
せい子との関係を下敷きに書いたのが、初の長編『痴人の愛』である。関東大震災に遭った谷崎は、一家で関西の阪神間に転居し、長い関西生活が始まる。佐藤春夫と和解し、昭和5年(1930)には佐藤に千代を譲り、鮎子も母についていく。この時、大阪高等女子専門学校を出て文藝春秋社の記者をしていた古川丁未子と結婚するが、実はすでに森田家四姉妹の次女で、富豪の御曹司の根津清太郎の妻となっていた松子と知り合っていた。松子には清治、恵美子の二人の子がいたが、谷崎は松子と深い仲となり、丁未子を離別して松子と一緒になる。最初の千代との離婚を題材にした『蓼食う虫』から、松子を題材にした『蘆刈』『盲目物語』『春琴抄』などをたて続けに発表し、文壇の一方の雄の地位を固める。「大谷崎」と呼ばれたのは、弟の精二も作家なので区別のためで、精二は「小谷崎」だが、のち、小林秀雄・三島由紀夫などが、偉大だから大谷崎なのだと勘違いした。
昭和十年代には、「源氏物語」の初の本格的現代語訳を、山田孝雄の監修つきで行い、ベストセラーとなった。当時から谷崎の著作の多くは中央公論社から出て、社主の嶋中雄二が担当していたため、現在に至るまで谷崎全集は中央公論から出ている。松子のすぐ下の妹・重子が見合いを繰り返して嫁いだ件をほぼ事実そのままに描いたのが『細雪』で、谷崎自身は次女・幸子の夫の貞之助という現実の谷崎よりずっと若い普通の婿入りした男に変えられている。だが1943年にこれが『中央公論』に連載が始まった時、戦時下に女人のめんめんたる生活を描くのは時局に相応しくないと軍部から横やりが入り、二回で連載は中絶した。谷崎は戦時下、密かに『細雪』を書き継いで上巻を自費出版して知友に配ったが、それも軍部から止められることがあり、結局残りを出したのは戦後のことで、これで毎日芸術賞を受賞した。戦時下には岡山県の津山などに疎開し、戦後は京都へ移り住んだ。
1949年に文化勲章を受章。のちに佐藤春夫も文化勲章を受章したので、千代は、二人の文化勲章受章者と結婚した女になった。松子の妹重子は、徳川の一族の渡辺明と結婚し、松子の長男・清治を養子にしたが、明は早くに死んで、清治の妻になったのが、日本画家・橋本関雪の孫の千萬子で、これがのち『瘋癲老人日記』の颯子のモデルとなり、晩年の谷崎の寵愛を受ける。谷崎は早くから熱海に別荘を持ち、関西と熱海を行き来していたが、1956年に京都を引き払って本格的に熱海に移り、晩年は湯河原に自宅を建てそこで死去した。戦後は高血圧のため病気がちだったが、『鍵』『少将滋幹の母』などを書き、谷崎訳『源氏物語』を弟子の舟橋聖一が歌舞伎に脚色して11代目市川団十郎によって上演され好評を博すなど、華やかな生活ぶりを見せた。恵美子は谷崎の養女となり、能楽の観世栄夫と結婚し、著作権継承者となった。