大日本帝国
大日本帝国 Empire of Japan | |
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国旗 | |
首都 | 東京[1] |
公用語 | 日本語 |
建国 | 1868年1月3日 |
解体 | 1947年5月3日 |
通貨 | 日本円 台湾銀行券 朝鮮銀行券 |
面積値(1938年) | 1,984,000km2[2] |
面積値(1942年) | 7,400,000km2[3] |
大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、英:Empire of Japan)とは、日本における、現在の「日本国」の前身となる国号。旧字体で大日本帝國と表記される事もある。
概要[編集]
偉大なる大日本帝国の国号を拝領した時代の日本は、近代化以降の畏れおおくも天皇陛下を君主とする帝国だった時代である。東アジアで最初の憲法である大日本帝国憲法を制定し日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に勝利し、国際連盟の常任理事国となって世界の五大国となった。しかし、世界恐慌による経済の混乱から海外進出を主張する大日本帝国陸軍の発言が強まり、日中戦争によってアメリカの経済制裁を受け、日独伊三国同盟を締結し、第二次世界大戦では枢軸国として連合国側と戦った。最初こそ連戦連勝だったが、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦い等で敗北すると徐々に劣勢となり、1945年8月のソ連が参戦した事や原子爆弾の投下により敗戦が濃厚となりポツダム宣言を受諾し、大日本帝国憲法は改正されるに至った。天皇は人間宣言をし「日本国民統合の象徴」となり、内閣の助言と承認を受けた国事行為のみの存在となった。
大日本帝国と日本国は、一時期併合した朝鮮や台湾、また国際連盟より委任統治された南洋の諸島をのぞき同じ民族で構成されているが、太平洋戦争後はアメリカの指導により大日本帝国憲法が改正されて天皇主権の国家が国民主権国家になったので、実質的には違う国になったという見方もある[4]。
なお、大日本帝国という呼び方は、大日本帝国憲法が施行された1890年に正式な国の名前となった。
領域[編集]
1930年[編集]
ここでの国名はあくまでも現在の領域のことである。
内地[編集]
- 日本の全域
外地[編集]
租借地[編集]
委任統治領[編集]
第二次世界大戦での占拠地[編集]
内地[編集]
- 日本の全域
外地[編集]
委任統治領[編集]
占領地域[編集]
- 南海諸島 (1939年 - 1945年)
- フランス領インドシナ(1940年 - 1945年)
- グアム島(大宮島)(1941年 - 1944年)
- ウェーク島(大鳥島)(1941年 - 1945年)
- イギリス領ギルバート諸島(1941年 - 1943年)
- イギリス領香港(1941年 - 1945年)
- イギリス保護国サラワク王国(1941年 - 1945年)
- イギリス保護国北ボルネオ(1941年 - 1945年)
- イギリス保護国ブルネイ(1941年 - 1945年)
- イギリス領マラヤ(1942年 - 1945年)
- イギリス領ビルマ(1942年 - 1945年)
- イギリス領インド(アンダマン・ニコバル諸島のみ)(1942年 - 1945年)
- イギリス領ソロモン諸島(1942年 - 1943年)
- オランダ領東インド(1942年 - 1945年)
- アメリカ合衆国アラスカ準州キスカ島(鳴神島)(1942年 - 1943年)
- アメリカ合衆国アラスカ準州アッツ島(熱田島)(1942年 - 1943年)
- アメリカ自治領フィリピン(1942年 - 1945年)
- オーストラリア委任統治領ニューギニア(1942年 - 1945年)
- イギリス・オーストラリア・ニュージーランド共同委任統治領ナウル(1942年 - 1945年)
- イギリス領バナバ島(太洋島)(1942年 - 1945年)
- イギリス領クリスマス島(1942年 - 1943年)
占領地域での政権樹立[編集]
- 中国大陸
- 中国の湖北省、河北省、北京、天津、山東省、河南省、安徽省、江蘇省、上海、浙江省、海南省のほぼ全域、福建省、広東省の一部(主に沿岸部) - 南京国民政府(1940年 - 1945年)
- 満州国(1932年3月1日 - 1945年8月18日) - 傀儡国家
- 晋北自治政府(1937年10月15日 - 1939年9月1日?) - 傀儡国家
- 蒙古聯合自治政府(1939年9月1日 - 1945年8月9日) - 傀儡国家
- フランス領インドシナ
- アメリカ自治領フィリピン
- フィリピン第二共和国(1943年10月14日 - 1945年9月3日)
- イギリス領ビルマ
- ビルマ国(1943年8月1日 - 1945年3月27日)
- イギリス領インド
- 自由インド仮政府(1943年10月21日 - 1945年)
特徴[編集]
古代国家の中央集権体制によく似た制度を採用した。中等教育の教員は府県立の学校であっても全国異動であり、北海道庁長官や府県知事は内務省の高等官でやはり全国異動であった。裁判官は行政権を担う司法省の高等官であり、大審院の院長も司法省の課長程度の地位であった。特別裁判所として行政裁判所と軍法会議が存在した。言論の自由は制限され、新聞に検閲が入った。米騒動の際は記事がすべて削除されて紙面が真っ白になることもあった。
天皇制[編集]
大日本帝国憲法では、天皇制は国政の安全弁であった。「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」とあるように、勅命は議会の決定に優先する。</ br> 日本国憲法化においても、親任官は天皇から直接辞令を受け取り、天皇の官僚として職務を行った。裁判は天皇の名によって行われ、宣戦布告も戒厳も天皇の名によって行われた。天皇機関説は、「天皇の神聖性を犯す」という思想から、政府内での騒乱を招いた。
軍隊[編集]
「大日本帝国陸軍」も参照
明治維新の際、日本国内には統一した軍隊はなく、新政府軍は各大名の元にいた軍隊で、銃器、軍服もバラバラであった。これらを統一した上、徴兵令によって集められた兵士による軍隊が編成された。士族の反乱はこれらの軍隊によって鎮圧され、西南戦争によって士族の反乱は終わった。大日本帝国憲法は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、天皇の軍隊であるが、天皇が軍のすべてをまとめるわけでもなく、天皇の軍隊であるとともに、国家の軍隊でもあった。しかし後年、「皇軍」とお言われるように、天皇の軍隊であることが強調され、これを背景に特に陸軍の暴走が起きた。徴兵は臣民の崇高な義務であると強調されたが、詐病によって忌避すると処罰される上、その後に優先的に徴兵されるなど制度に矛盾があった。また、一定期間の自由刑を受けると逆に徴兵の対象から外された。
大日本帝国は、欧米列強と比較し、経済力が劣る一方で軍事力は肩を並べるレベルであり、軍事国家としての性格が強かった。その一方、部落差別が軍隊にまで入り込み、これに全国水平社が糾弾活動を行うなど、被差別部落の問題に頭を痛めた。
教育[編集]
詳細は「昭和時代戦前の教育」を参照
男女別学で、当初は4年間、後に6年間の義務教育を行った。中等教育は一部の者のみ受けられ、あとは就職した。昭和に入ると青年学校の義務化が始まった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
日本列島の統治 | ||
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先代: 徳川幕府 (1603年 - 1867年) |
大日本帝国(1868年 - 1947年) | 次代:日本国 連合国軍占領下の日本 (1945年 - 1952年) アメリカ合衆国による沖縄統治 (1945年 - 1972年) |