青年学校
青年学校 (せいねんがっこう)とはかつて青年学校令に基づき、中学校、高等女学校、実業学校、高等小学校に進学しない青少年層に職業教育等を行った夜間の学校である。
概要[編集]
従来、各市町村に青少年層教育施設として並立していた実業補習学校と青年訓練所を制度上併合し、1935年(昭和10年)に発足した。各市町村は2種類の教育機関の設置に財政的な負担を抱え、これの解消のために行った。加えて、青年学校教員を養成する青年師範学校が各都道府県に設けられた。
尋常小学校卒業者対象の2年制の普通科[注 1]と、普通科を卒業した男子5年制、女子3年制の高等科とし、順次義務制とする予定であった。授業料は無料であった。高等科を卒業すると男子の修学期間は7年間となった[注 2]。
授業内容は普通学、職業教育(実業補習学校から継承)、男子は軍事教練(青年訓練所から継承)、女子は裁縫だった。
設置母体[編集]
小学校に併置された市町村立が多かったが、企業内に設置された学校もあった。
終焉[編集]
1945年8月の終戦後、軍事教練は無くなり、職業教育、裁縫主体の教育体制に戻ったが、学校教育法の成立で根拠勅令を失い[注 2]、教員は1947年発足の新制中学校や1948年発足の新制高等学校の昼間定時制分校に多く配属された。校舎は新制中学校に転用されたものが多く、このため現在も小学校と中学校が併設されているところがある。
他方、実業補習学校や青年訓練所からの同窓会組織の継承や存続が殆どないため、事実上廃校とされ、後継学校もないとされた。
曲がりなりにも、高等小学校が後継の中学校、旧制中学校、高等女学校、実業学校が後継の高等学校、旧制高等学校、旧制専門学校、師範学校が後継の大学に包摂され、同窓会組織もほぼ継承されたのに対して、新制高等学校に別科を設けて、裁縫等の教育を短期で行う救済はあったもの、青年層に特化した教育機関の法的な裏付けはなかった。このため、高校進学しない青年層の受け皿の必要性を感じた町村[1]では、各種学校の枠組みで、「高等実務学校」、「高等実業学院」の名称で、旧制の実業補習学校的な教育を行ったり、青年層の教育を行った社会教育機関もあったが、これらも全日制高等学校の増加で徐々に廃れた[注 3]。
企業内青年学校は中卒就職者向けの職業訓練施設に転換して、中卒採用のあった1970年頃まで機能していた企業もあった。
評価[編集]
義務教育の延長という目的はできたものの就学者は少数で、授業内容も薄かった。さらに戦時の勤労動員で授業すら行われず、戦後は主要な科目であった軍事教練が行われなくなった。その上、学制改革で歴史に埋没した形になった。しかし、制度上とはいえ、中等学校に進学できなかった青少年層への教育の場を提供し、戦後の学制改革で新制中学校に校舎と教員を提供して義務教育延長の足がかりを作った功績は大きい。
使用された教科書[編集]
- 大日本帝国海軍省『青年學校海軍智識』軍人會館出版課昭和15年5月20日改訂増補発行。
参考文献[編集]
- 百瀬孝『事典昭和戦前期の日本』吉川弘文館2002年8月20日第8刷発行。ISBN-4-642-03619-9
- 百瀬孝『事典昭和戦後期の日本』吉川弘文館1995年7月10日第1刷発行。ISBN-4-642-03658-X
- 竹内洋『立身・苦学・出世』講談社現代新書1991年2月20日第1刷発行
- 大日本帝国海軍省『青年學校海軍智識』軍人會館出版課昭和15年5月20日改訂増補発行。
脚注[編集]
- 注
- 出典
- ↑ ex.第五章 現代社会の展開と石部