千代の富士貢

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
千代の富士から転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動

千代の富士貢 (ちよのふじみつぐ、1955年(昭和30年)6月1日 - 2016年(平成28年)7月31日)、本名、秋元貢は北海道松前郡福島町出身の大相撲力士、第58代横綱である。53連勝の記録を持ち、国民栄誉賞を受賞した国民的人気を誇った横綱である。愛称は「ウルフ」。

来歴[編集]

入門[編集]

年少の頃からスポーツ万能であり、特に陸上競技の素質があり、高校陸上部志望で、将来はオリンピック選手になる夢を持っていたが、後に遠縁と分かる千代の山の11代九重に中学在学時に飛行機をエサにスカウトされ、北玉時代の1970年に大秋元の四股名で初土俵。すぐに師匠と先輩横綱の四股名を組み合わせた千代の富士に改めた。
最強力士が輪島から北の湖に移りつつあった1974年11月に新十両、1975年9月に新入幕し、いずれも昭和30年代生まれ初である。典型ソップ型で左肩脱臼が常習化して番付を昇降し、11代九重を悩ませた中で、志半ばで11代九重は1977年に早逝。
若乃花がNo.2として定着してきた1978年7月に新三役になるも、初の右肩脱臼を機に、三重県四日市の医師のアドバイスの下、肩に筋肉を付け、入門時の兄弟子で12代九重を継いで育ての師匠となる北の富士勝昭[注 1]が肩の負担にならないように取り口を変える指導を行い、十両陥落の1979年5月場所に途中出場して勝ち越しし、以後幕内に定着。1981年1月場所で関脇で千秋楽本割まで14連勝し大関当確とさせ、千秋楽本割で敗れた北の湖に優勝決定戦で勝ち、初の幕内最高優勝を遂げ、優勝決定戦は60%超えの視聴率となってウルフフィーバーを呼び起こした。

横綱昇進[編集]

大関3場所で横綱に昇進。新横綱で休場したのをはじめ歴代横綱として休場は多めだが、休場後の場所は殆ど優勝で、結果10年間横綱の地位を保った。1981〜82年頃から北の湖は休場が目立ち、千代の富士が最強力士に代わる。1985年1月の両国国技館こけら落とし場所で、北の湖は3日目に引退し、千代の富士は新国技館優勝1号となる。
1988年に最盛期を迎え、当時の連勝記録を記録。おかげで、当時実質No.2であった旭富士はこの時期の横綱昇進を見送られた。大相撲平成元年名古屋場所直前に三女を乳幼児突然死症候群亡くし、「千代の富士はもうだめだ」という声があったが、初日には大きな数珠を首からかけて場所入りした。千秋楽では同部屋対決で弟弟子の横綱北勝海信芳 (現八角理事長)を破って優勝した。
1991年5月場所で初日貴花田、3日目貴闘力に敗れ、その場所限りで引退。

現役引退後[編集]

後述の連勝や力士最多勝利等の功績から一代年寄が認められたが、これを辞退して引退後は年寄・陣幕を襲名した。
後に墨田区の自宅に九重部屋を開設して師匠を継ぎ、大関千代大海らを育てた。膵臓癌で61歳で年寄現役中に死去。

成績[編集]

優勝31回は歴代3位、通算1045勝は魁皇に破られるまで歴代1位の不滅の記録と言われた。1989年9月、その記録を称えられ、国民栄誉賞受賞。他に53連勝(2022年時点で歴代3位)も記録した。

ゴルフ[編集]

現役中、場所のない日はテレビゲームや麻雀をやっていたが、見かねた師匠の北の富士勝昭から無理矢理ゴルフに連れて行かれるとゴルフ初経験の千代の富士は師匠より良いスコアを出して「いやあ、師匠、ゴルフって楽しいですね」と言った。その後、ゴルフクラブを集めだし開運!なんでも鑑定団にゴルフクラブを出品した。

性格[編集]

茶目っ気なところもあり、相手力士が休場して不戦勝をあげたとき、報道陣に向かって、「どうだ、いい相撲だっただろう」と述べた。

その他[編集]

力士と学歴」も参照

最終学歴は高校中退である。
入門当初は陸上への未練もあり、東京の転校先でも陸上で好成績を残し、明治大学附属中野高等学校へ進学したが、陸上をやらせてもらえず、本場所の取り組みも半端になって、6ヶ月で高校を中退した。

家族・縁戚[編集]

コラム[編集]

出演番組[編集]

同時代の主な好敵手[編集]

  • 横綱 隆の里 - 13勝18敗
  • 横綱 大乃国 - 23勝9敗
  • 横綱 旭富士 - 30勝6敗、不戦1敗含む
  • 大関 朝潮 - 31勝15敗、決定戦2勝
  • 大関 北天佑 - 33勝14敗、不戦2敗含む
  • 大関 小錦 - 20勝9敗、不戦1勝含む
  • 関脇 巨砲 - 37勝5敗、不戦1敗含む

関連項目[編集]

[編集]

  1. 愛称のウルフの命名者でもある。

参考文献[編集]


関連項目:内閣総理大臣顕彰 - 勲章 (日本) - 褒章 - 賞杯 - 賜杯 - 位階
個人 1977年昭和52年):王貞治
1978年(昭和53年):古賀政男
1984年(昭和59年):長谷川一夫
1984年(昭和59年):植村直己
1984年(昭和59年):山下泰裕
1987年(昭和62年):衣笠祥雄
1989年平成 元年):美空ひばり
1989年(平成 元年):千代の富士貢
1992年(平成 4年):藤山一郎
1992年(平成 4年):長谷川町子
1993年(平成 5年):服部良一
1996年(平成 8年):渥美清
1998年(平成10年):吉田正
1998年(平成10年):黒澤明
2000年(平成12年):高橋尚子
2009年(平成21年):遠藤実
2009年(平成21年):森光子
2009年(平成21年):森繁久彌
2012年(平成24年):吉田沙保里
2013年(平成25年):大鵬幸喜
2013年(平成25年):長嶋茂雄
2013年(平成25年):松井秀喜
2016年(平成28年):伊調馨
2018年(平成30年):羽生善治
2018年(平成30年):井山裕太
2018年(平成30年):羽生結弦
2023年(令和5年):国枝慎吾
団体 2011年(平成23年):ワールドカップ日本女子代表
個人27人、団体1団体が受賞している/名前の前の年は受賞年。