伊賀の方
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伊賀の方(いがのかた、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の女性。伊賀氏とも呼ばれる。藤原秀郷流の関東の豪族である伊賀朝光の娘。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の後妻(継室)[1]。兄弟姉妹に光季、光宗、光資、光重、結城朝光室。子に第7代執権・北条政村のほか、北条実泰、北条時尚、一条実雅室などがいる。名乗りなどは不詳。
生涯[編集]
元仁元年6月13日(1224年7月1日)に夫の北条義時が死去すると、兄で政所執事であった光宗と共謀し、有力御家人である三浦義村を抱き込んで娘婿の一条実雅を征夷大将軍に、息子の政村を執権にしようとしたが、義村の協力を得られず失敗して北条政子・北条泰時らによって逮捕され、伊豆北条に幽閉された[2](伊賀氏の変)。幽閉後から数か月した年末の12月に病気にかかって危篤になったとする記録があり、その後の行方を示す記録が無いため、間もなく死去したのではないかと推測されている[2]。
なお、義時の死去は突然の急死であったため、この伊賀氏が毒殺したのではないかとする説も存在する[2]。藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている。