秋田豊
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選手情報 | |
---|---|
本名 | 秋田 豊 |
英字表記 | Yutaka Akita |
生年月日 | 1970年8月6日(54歳) |
出身地 | 日本、愛知県 |
身長 | 180 cm |
体重 | 78 kg |
ポジション | ディフェンダー |
クラブチーム | |
1993-2003 2004-2006 2007 |
鹿島アントラーズ 名古屋グランパスエイト 京都サンガFC |
代表チーム | |
1995-2003 | 日本 |
監督チーム | |
2010 2012-2013 2020- |
京都サンガFC FC町田ゼルビア いわてグルージャ盛岡 |
秋田 豊(あきた ゆたか、1970年8月6日 - )は日本のサッカー選手、監督。
人物・プレースタイル[編集]
選手時代はおもにセンターバックを務めた。鹿島アントラーズ入団当初はジーコの推薦で右サイドバックとしても活躍している。
1対1に強く、ハイボールをヘッドではじき返す高さは有名で”走る畳”とまで言われていた。相手に当たり負けしない強靭なフィジカル、絶妙なポジショニング、打点の高さ、ボールをミートした瞬間の強さは攻撃時のセットプレーから多くの得点を演出した。またそのプレースタイルから相手のエースをマンマークすることが多く、とりわけ磐田のエース中山雅史との対決はチャンピオンシップ等でライバル対決として最も注目されるシーンの1つであり、当時のJリーグのハイライトであった。
エピソード[編集]
- FIFAワールドカップ-1998、FIFAワールドカップ-2002の2回のワールドカップを経験している。特に、1997年に開催されたフランスW杯アジア地区最終予選では、途中からレギュラーとして起用され、得意の空中戦だけでなく、スピードのあるFWも封じ込めた。またセットプレーからヘディングで2得点(対カザフスタン戦、アウェイ・ホームで各1点ずつ)を挙げた。本大会ではアルゼンチンのバティストゥータ、クロアチアのシュケルなど相手のエースのマークを任されている。
- トルシエ体制では立ち上げ当初こそ召集されるもすぐに構想から外れ、呼ばれなくなる。しかし本大会メンバーにまさかのサプライズ選出される。トルシエ曰く、「本大会メンバーの集団には、試合には出ないがチームを纏めるために必要なベテランが必要」と語っている。実際、大会前のテストマッチ1試合の後半途中に出場したのみで、本大会ではフィールドプレイヤーとして唯一出場機会がなかった。代表監督がジーコに変わると立ち上げ当初はレギュラーストッパーとして召集されるが、バックラインの総入れ替えを断行されて以来、代表に呼ばれることはなかった。
- 練習熱心。日常生活でも「プロ選手」としての心がけを決して忘れず、体調管理・栄養管理などにも細心の注意を払っていた。そうした秋田の姿勢は、クラブチームにおいても日本代表チームにおいても高く評価されてきた。代表では加茂周・岡田武史・フィリップ・トルシエ・ジーコという4人の監督によってメンバーに選ばれている。
- 鹿島在籍時、全治3週間のケガを3日で治し、試合に出たことがある。
- 鹿島からの戦力外通告は本人のみならず、チームメイトやサポーターにとっても大きなショックであった。現役続行を希望していた秋田は複数のオファーの中、移籍先として地元である名古屋グランパスエイトを選んだ。息子から「(鹿島と同じ)赤いユニフォームが良い」と言われた事も、名古屋への移籍を決めた理由と言われている。
- 鹿島在籍時、チームスポンサーでもあるトステムのCMで菊池桃子と共演。「優しい夫」役でピッチ上とは違った一面を見せた。
- 鹿島には秋田自慢のヘッド強化アイテムがあるが愛弟子の岩政大樹しか使わない。
- FIFAワールドカップ-1998で、当時世界屈指のストライカーだったアルゼンチンのガブリエル・バティストゥータをマーク。大会後、「(前年Jリーグで活躍した)パトリック・エムボマのほうが凄かった」と語っている。
- 日韓ワールドカップの激励会で、悪乗りをしてトルシエをプールに突き落としたりスパイクで頭を叩くなどして他の選手を驚かせたが、トルシエは意に介すことなく笑っており、信頼関係の厚さを感じさせた。
- 日韓ワールドカップ代表メンバー発表当日、各マスコミは代表選出有力選手と当落線上の選手のネームプレートを用意し放送に控えていたが、秋田が選出されると考えていたマスコミは皆無に等しく、急遽プレートに秋田豊と手書きして報道したテレビ局もあった。
- やべっちFCにて行われた、W杯で本田圭佑と中村俊輔のどちらを軸にするかという討論会で、名波浩と藤田俊哉が中村と答える中、「中村中心だったドイツは中村のコンディションが悪いまま使って惨敗した」と答え、本田を軸にしたほうがいいと話した。この時、名波が中村を強く推すのに対し、それは中村憲剛でもいいと返している。
クラブチームの統計[編集]
年度 | リーグ | 番 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|---|
鹿島 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
1993 | J | - | 35 | 0 | 5 | 1 |
1994 | - | 38 | 4 | 1 | 0 | |
1995 | - | 50 | 0 | - | ||
1996 | - | 16 | 0 | 4 | 0 | |
1997 | 3 | 21 | 3 | 2 | 2 | |
1998 | 3 | 32 | 3 | 1 | 0 | |
1999 | J1 | 3 | 28 | 2 | 6 | 1 |
2000 | 3 | 28 | 1 | 7 | 0 | |
2001 | 3 | 29 | 2 | 6 | 1 | |
2002 | 3 | 29 | 4 | 8 | 0 | |
2003 | 3 | 28 | 1 | 5 | 0 | |
通算 | 334 | 20 | 45 | 5 | ||
名古屋 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
2004 | J1 | 2 | 26 | 0 | 7 | 0 |
2005 | 2 | 19 | 1 | 0 | 0 | |
2006 | 2 | 12 | 2 | 3 | 0 | |
通算 | 57 | 3 | 10 | 0 | ||
京都 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
2007 | J2 | 2 | 14 | 0 | - | |
通算 | 14 | 0 | 0 | 0 | ||
総通算 | 405 | 23 | 55 | 5 |
代表チームの統計[編集]
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 試合 | 得点 |
1995 | 2 | 1 |
1996 | 2 | 0 |
1997 | 16 | 2 |
1998 | 10 | 0 |
1999 | 7 | 0 |
2000 | 0 | 0 |
2001 | 0 | 0 |
2002 | 3 | 0 |
2003 | 4 | 1 |
通算 | 44 | 4 |