香宗我部親泰

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香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす、天文3年(1543年)- 文禄2年12月21日1594年2月11日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏の一族で家臣長宗我部国親の3男[1]

生涯[編集]

は長宗我部国親。は不詳。長兄に長宗我部元親。次兄に吉良親貞がいる。正室は香宗我部秀通の娘。長男香宗我部親氏次男香宗我部貞親。官途は内記[2]

香宗我部家は親泰が生まれる17年前に安芸氏との戦いで香宗我部秀義戦死し、家督は香宗我部秀通が継承していた。しかし、長宗我部国親の勢力が土佐国において強大になるにつれ、秀義の父で秀通の兄に当たる香宗我部親秀は長宗我部家の勢力に自ら加入することを望み、これに反対した秀通を弘治2年(1556年)に誘殺し、永禄元年(1558年)に親泰を養子に迎えて香宗我部家の当主にした。親泰は香宗我部家の一族を粛清したりはせず、秀通の遺児である香宗我部泰吉を庇護下に置いている。泰吉も香宗我部から中山田に改姓し、親泰から偏諱を賜って以後は親泰の補佐を務めた[1]

永禄3年(1560年)に国親が死去し、元親が当主になると、親泰は兄の補佐役としてその片腕のような存在となった。永禄12年(1569年)8月に安芸国虎が自刃した際、新たな安芸城主に任命されて受領名を安芸守と名乗った。以後、元親の土佐統一から四国制圧戦争において、主に阿波国東部の攻撃を担当し、海部宗寿を破って元親から海部城も任され、事実上阿波国の軍代となった。天正7年(1579年)に牛岐城主の新開道善を降伏させ、牛岐城を接収した[1]

天正8年(1580年)6月からは織田信長との取次として近江安土城に赴いて、阿波岩倉城三好康俊の服属を信長に報告した上で、三好康長との友好の斡旋を求めている。天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去し、その後に発生した中富川の戦いにおいて十河存保を破る大功を挙げ、天正11年(1583年)には阿波国木津城を落とす功績を立てた[1]

このように軍事や外交で活躍した親泰だが、他の大名家からは親泰は外交官と見られており、賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家小牧・長久手の戦いにおける徳川家康織田信雄らが元親と連絡を取る際には、親泰が取次として一切の交渉を務めている[3]

長宗我部家が豊臣秀吉に降って豊臣政権下の一大名になった後も元親の補佐を務める。元親が秀吉に従って九州征伐小田原征伐に参加した際には、親泰は土佐国の留守を務めている。また、親泰の所領は香美郡安芸郡長岡郡吾川郡に跨る700町余、塩浜は39に及ぶという広大なもので、家臣団は270家に及ぶという長宗我部家臣団でも抜きんでた所領と家臣の数を誇っていた[4][5]

天正20年(1592年)、秀吉の文禄の役では長男の親氏が長宗我部軍の大将として渡海する予定だったが、俄かに陣没してしまう[5]。このため老齢の親泰が長宗我部軍の大将として渡海する予定だったが、文禄2年(1593年)12月21日に渡海直前になって長門国において病気により急死した。51歳没[3][5]

長男の親氏は既に亡く、残されたのは親泰の末子で親氏の弟である長寿丸のみとなり、しかも3歳の幼少だったため、長寿丸が家督を継承したものの実際には中山田泰吉とその実弟である秀政が後見する体制が執られることになった[5]

親泰の死により長宗我部家を支える藩屏はいなくなり、その後の長宗我部家は失策を繰り返し、最終的に関ヶ原の戦い西軍に属して改易となり、香宗我部家も土佐を追われることになった。

なお、その死から150年後の江戸時代中期の寛保元年(1741年)12月に親泰の150回忌が香宗我部家関係者の末裔によって菩提寺の宝鏡寺で執り行われており、寛政4年(1792年)の200回忌に257名が参会、江戸時代後期の天保13年(1842年)の250回忌は3日にわたって行われた上、菩提寺をはじめ5つの寺の和尚が出て、400人を超える参列者が出る盛儀だったとされ、親泰の遺徳が後年まで広く慕われると同時に、人望のある人物だったことがうかがえる一例となっている[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 山本大「長宗我部元親のすべて」P194
  2. 山本大「長宗我部元親のすべて」P119
  3. a b 山本大「長宗我部元親のすべて」P195
  4. 山本大「長宗我部元親のすべて」P121
  5. a b c d 山本大「長宗我部元親のすべて」P122
  6. 山本大「長宗我部元親のすべて」P132

参考文献[編集]