香宗我部貞親
香宗我部 貞親(こうそかべ さだちか、天正19年(1591年)- 万治3年(1660年)7月)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐国の戦国大名である長宗我部氏の一族で香宗我部氏の当主。長宗我部元親の甥に当たる。官途は左近大夫。
生涯[編集]
父は長宗我部元親の弟・香宗我部親泰で末子。母は不詳。兄に香宗我部親氏がいる。幼名は長寿丸[1]。
文禄元年(1592年)に兄の親氏が朝鮮出兵における陣中で急死し、文禄2年(1593年)に兄に代わって出陣予定だった父までが急死した。このため、わずか3歳の長寿丸が貞親として家督を相続して当主となった。幼少のため、親泰時代からの重臣であった中山田泰吉・秀政兄弟が後見した[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部家の当主で従兄に当たる長宗我部盛親は西軍に属して戦後に改易となる。このため、同じく長宗我部一族だった貞親も土佐に留まることができなくなり、退去することになった。しかし、退去時点でわずか10歳のため独り立ちは不可能であり、後見の秀政が自らの長男・政氏を付けて送り出し、政氏は和泉国堺において貞親を7年間にわたって養育したという[1]。
その後、成長した貞親は肥前国唐津藩主の寺沢広高に仕えたが、後に辞去して江戸の知足院に浪居する。寛永12年(1635年)3月に武蔵国川越藩主であり、徳川家光の若年寄に抜擢されて側近として権勢を振るう堀田正盛の義理の祖母・春日局の周旋を受けて同年3月28日に正盛に御目見えし、正盛は長宗我部家の一族であるため家光の許可を得てから、客人分として召し抱えたという。なお、貞親から見て春日局は従姉に当たるため、その縁戚関係から召し抱えられたと見られている。同年6月28日、正盛から1000石の知行を与えられている[2]。
寛永15年(1638年)1月、正盛は信濃国松本藩に加増の上で移封となるが、この際に正盛の命令を受けて松本城の受け取りを務めている。その功績からか、5月に300石を加増されて1300石になっている。寛永19年(1642年)7月、正盛が下総国佐倉藩に移封された際にも城受け取り役を務め、その功績からか今度は城代家老に任命されている。正盛が徳川家光の死去に伴って殉死すると、後継者の正信に仕えた[3]。
貞親は長宗我部一族の上に牢人生活もしていたことから、妻を迎えたのは堀田家に仕官してからと遅かったためか、子息が無かった。このため承応元年(1652年)に佐倉藩士・高井源三衛門の嫡子を自らの養子に迎えて重親と名乗らせている。なお、重親の母は正盛の妹である[3]。
万治3年(1660年)2月に養子の重親に家督を譲って隠居。その5か月後に70歳で没した[3]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]