中山田泰吉
中山田 泰吉(なかやまだ やすよし、天文10年(1541年)? ‐ 慶長18年(1613年)1月)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。香宗我部氏の一族で家臣。
略歴[編集]
父は香宗我部秀通。母は細川定輔の娘。弟に秀政がいる。官途は左衛門佐。妻は一条兼定の養女という[1]。生年については天文9年(1540年)ともいわれる。
父・秀通は香宗我部家の当主だったが、伯父の香宗我部親秀と長宗我部国親の3男・香宗我部親泰を養子に迎えるかどうかで対立し、弘治2年(1556年)に親秀が送り込んだ刺客によって暗殺された。泰吉はこの際、弟の秀政と共に母の実家である細川氏の下に逃亡して庇護された[2]。
永禄元年(1558年)に香宗我部家は親泰が正式に継承し、その代償として親秀には隠居料を与えられたが、この際に親秀は自らが殺した秀通の遺児を引き取ることを細川家に申し入れて引き取り、その養育に当たった。親秀は自家の家名存続のために秀通を殺害したがそれを悔いていたとされており、成長した泰吉に自らの隠居料である香美郡の中山田、新宮、兎田を与えた。泰吉は親泰をはばかり、中山田に移って姓を中山田と改めた[1]。
泰吉は色白で長身の美青年だったとされ、寡黙で礼儀正しく、儒学や芸能、武勇いずれも優れていた知勇兼備の人物で、さらに信賞必罰を常にしたので周囲から慕われたという[1]。文禄2年(1593年)に親泰が死去し、後継者となる子の貞親はわずか3歳という幼少だったことから、泰吉はその後見人として実質的に香宗我部家を主導する立場になり、弟の秀政と共に貞親を補佐した[3]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が改易されると、貞親も土佐を去ることになったが、泰吉は土佐に留まった。山内氏から仕官を勧められたが拒否し、御北屋敷に隠棲したという。慶長18年(1613年)1月に死去。享年73。泰吉には子に秀長、宜時らがいたにも関わらず、彼らには家督は譲られずに弟の秀政が継承している[3][4]。
泰吉の子孫は土佐で有力な豪商となって繁栄し、その中から土佐最大の江戸時代の画家である中山高陽が生まれている[5]。
なお、Wikipediaにある中山田泰吉の記事では生年が天文13年(1544年)、没年が元和5年(1619年)となっているが、これは弟の秀政の生没年である。間違いのまま最初に記事が作られた平成27年(2015年)から7年以上も放置されており、Wikipediaがいかに信頼性がないものかを物語る一例となっている[6]。