中山田秀政
中山田 秀政(なかやまだ ひでまさ、天文13年(1544年) ‐ 元和5年(1619年)7月)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。香宗我部氏の一族で家臣。
略歴[編集]
父は香宗我部秀通。母は細川定輔の娘。兄に泰吉がいる。秀政の「秀」は伯父・香宗我部親秀からの偏諱と考えられる。
父・秀通は香宗我部家の当主だったが、伯父の香宗我部親秀と長宗我部国親の3男・香宗我部親泰を養子に迎えるかどうかで対立し、弘治2年(1556年)に親秀が送り込んだ刺客によって暗殺された。秀政はこの際、兄の泰吉と共に母の実家である細川氏の下に逃亡して庇護された[1]。
永禄元年(1558年)に香宗我部家は親泰が正式に継承し、その代償として親秀には隠居料を与えられたが、この際に親秀は自らが殺した秀通の遺児を引き取ることを細川家に申し入れて引き取り、その養育に当たった。親秀は自家の家名存続のために秀通を殺害したがそれを悔いていたとされており、成長した兄の泰吉に自らの隠居料である香美郡の中山田、新宮、兎田を与えた。泰吉と秀政は親泰をはばかり、中山田に移って姓を中山田と改めて親泰に仕えた[2]。
文禄2年(1593年)に親泰が死去し、後継者となる子の貞親はわずか3歳という幼少だったことから、泰吉はその後見人として実質的に香宗我部家を主導する立場になり、弟の秀政と共に貞親を補佐した[3]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が改易されると、貞親も土佐を去ることになったが、泰吉・秀政兄弟は土佐に留まった。山内氏から仕官を勧められたが拒否し、秀政は野之土居に隠棲したという。なお、貞親が土佐を去るときはわずか10歳の幼少だったことから独り立ちすることはまだ不可能だったため、秀政は長男の政氏を貞親に付けて送り出し、和泉国堺において7年間にわたり養育させたという。慶長18年(1613年)1月に泰吉が73歳で死去し、泰吉には子に秀長、宜時らがいたにも関わらず、彼らには家督は譲られずに弟の秀政が継承している。秀政は兄の死から6年後の元和5年(1619年)7月に死去した。享年76[3][4]。
なお、Wikipediaに秀政の記事はないが、兄の中山田泰吉の記事があり、そこでは生年が天文13年(1544年)、没年が元和5年(1619年)となっているが、これは弟の秀政の生没年である。間違いのまま最初に記事が作られた平成27年(2015年)から7年以上も放置されており、Wikipediaがいかに信頼性がないものかを物語る一例となっている[5]。