香宗我部親秀
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香宗我部 親秀(こうそかべ ちかひで、生没年不詳)は、戦国時代の武将。土佐国の国人。土佐国香美郡香宗城主。
生涯[編集]
父は香宗我部通長で長男。大永6年(1526年)に土佐安芸郡の領主・安芸氏との戦いで大敗し、嫡男の秀義を失った。そのため弟の秀通を養子にし、自らは遷仙と号して隠居した[1]。
しかし長宗我部国親の勢力が拡大したので、嫡男の仇を討つため、あるいは衰亡する自家を再建するために、国親の3男を養子に迎えようとして秀通と対立し、遂に弘治2年(1556年)10月に刺客を送って秀通を殺害し、永禄元年(1558年)に国親の3男を香宗我部親泰として養子に迎えて家督を譲った[1]。
親秀には郷内の新宮、中山田、兎田の3村に隠居料を与えられ、中山田土居に隠棲した。なお、御家存続と再興のために弟を暗殺したが、秀通はその行為を最後まで悔いていたとされており、秀通の暗殺によりその母の実家である細川定輔の下に逃亡していた遺児の男子2人を引き取り、自らの隠居料を与えて養育した。この2人は中山田泰吉、中山田秀政と名乗って香宗我部親泰を支える名臣となってゆくことになった[2]。