吉良親貞
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吉良 親貞(きら ちかさだ、天文10年(1541年)- 天正4年7月15日(1576年8月9日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。中村城主。長宗我部氏の一族で家臣。
生涯[編集]
官途は左京進。受領名は播磨守。長宗我部国親の次男で[1]、長宗我部元親の弟。香宗我部親泰の兄に当たる。子に如渕、親実らがいる。
兄・元親の土佐国平定に協力し、剛毅で知略に富んだ名将であったことから多くの戦功を立てた。永禄6年(1563年)春、本山茂辰が土佐郡朝倉城から退去した際に吾川郡弘岡の吉良家の名跡を継承した[1]。
永禄12年(1569年)11月6日、親貞は謀略をもって一条兼定の部下が守っていた高岡郡蓮池城を攻略。さらに戸波城も攻略し、高岡郡久礼城主の佐竹義直を内応させて幡多郡攻略の総大将となった[1]。
天正2年(1574年)春、一条兼定が御家騒動から重臣によって家中を追われると、一条内政を庇護して大津に移して元親の婿として迎えるように進言。そして親貞は自ら中村に入って城代として幡多郡全域の支配を務める[1]。天正3年(1575年)に兼定が起死回生を果たすべく土佐に進撃して四万十川の戦いが起きた際、親貞は一条軍を破るのに大きく貢献した。
天正4年(1576年)7月15日に死去。享年36[1]。家督は子の親実が継承した。
親貞の死により元親の四国平定はその後大きく遅れ、また元親は後継者問題で暴走を繰り返した。跡を継いだ親実は親貞の遺志を継いで元親を支えるも粛清され、さらに親貞の一族もことごとく粛清される憂き目にあっている。