香宗我部秀通
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香宗我部 秀通(こうそかべ ひでみち、永正7年(1510年)- 弘治2年10月21日(1556年11月22日))は、戦国時代の武将。土佐国の国人で香美郡香宗城主[1]。
生涯[編集]
父は香宗我部通長で次男。兄に親秀がいる。子に中山田泰吉、中山田秀政、娘(香宗我部親泰正室)。仮名は孫十郎[1]。
兄に親秀、そしてその子である秀義がいたことから、秀通に家督相続の可能性は皆無だったが、その秀義が大永6年(1526年)、安芸氏との合戦で戦死したため、親秀の養子に迎えられて家督を継いだ[1]。
しかし、土佐国では岡豊城主の長宗我部国親が台頭し、安芸氏と長宗我部氏に挟まれていた香宗我部家では、我が子の仇を討ちたい親秀が長宗我部氏に近づいて国親の3男・親泰を後継者に迎えようという計画まで立てた。しかし、細川定輔の娘を娶って子宝にも恵まれていた秀通はこの養子縁組に反対して親秀と対立。親秀は弘治2年(1556年)10月21日に秀通の居館に刺客を送り込んで遂に謀殺した。享年47[1][2]。
秀通の遺児・泰吉と秀政は親秀に引き取られて養育され、親泰を支えて名臣と評された。