身延町
身延町(みのぶちょう)とは、山梨県南巨摩郡に所在する町である。
概要[編集]
町域の西は身延山地が、東は天守山地が占め、ほぼ中央を南に流れる富士川とその支流である波木井川沿いに平地があるほかは山地が大半を占めている。
日蓮宗総本山の久遠寺の門前町として、町制施行時からの身延町が古くから繫栄したため、四季を通じて参拝客で賑わい、参拝客のための旅館や土産物店が軒を並べる。また町立の自然博物館も存在し、様々な寺社も存在するなど見どころは多い。
町内には相又峡・塩之沢・身延などに温泉もある。平成の大合併で、下部温泉が町域に加わった。
歴史[編集]
この町は中世に下山氏が支配した。下山氏が滅亡した後、穴山氏が支配する。穴山氏は元々甲斐の守護大名である甲斐武田氏の一門で、武田信虎の時代まで甲斐武田氏と勢力争いを繰り広げていた。しかし、信虎が強大になると当時の当主・穴山信友は信虎の娘・南松院殿を正室に迎えて服従する。この南松院殿は武田信玄の姉にあたり、この女性から生まれた信友の嫡子が穴山信君(梅雪斎)であった。
信君は正室に信玄の娘・見性院を迎えて武田姓を称することを許されるなど、武田家と重縁で結ばれている重臣中の重臣であったが、天正10年(1582年)3月の武田征伐の際に義弟にあたる武田勝頼を裏切って織田信長・徳川家康らに降伏した。しかし6月、本能寺の変が起こって信長が横死すると、当時畿内にいた信君は帰国の途上で山城宇治田原において百姓一揆に襲われて落命し、穴山氏もやがて没落した。
江戸時代になるともともと様々な寺社が存在する関係から、その技術を知られた宮大工の町として繁栄した。江戸幕府からこの地の寺社の多くが帰依を受けて繫栄している。
昭和6年(1931年)に町制を施行して身延町が誕生する。昭和30年(1955年)に旧・身延町と下山村・豊岡村・西八代郡大河内村の1町3村が合体して再び身延町が誕生した。
平成16年(2004年)9月13日、身延町・中富町・西八代郡下部町が合併し、現在の身延町が発足した。
人口・面積[編集]
教育[編集]
- 学校法人身延山学園
- 山梨県立身延高等学校 - 公立だが、静岡県からの進学も可能