願成寺
願成寺(がんじょうじ)は、滋賀県東近江市の寺院。
沿革[編集]
推古天皇27年(619年)、聖徳太子によって創建されたと伝えられる。聖徳太子御作[1]の本尊・聖観世音菩薩立像は聖徳太子の母の姿を写したものと言われている[2]。後に天台宗となり、「川合六坊」の第一坊として栄えていたが、織田信長の比叡山焼き討ち(c1571年)と同じときにほとんどの建物が焼失した。この際、裏山に潜んでいた僧兵が信長にむけて矢を放ち、寺院はもとより、山まですべて焼き払われたとの伝承もある[3]。本尊の聖観世音菩薩立像は村人の手により裏山に隠され、難を逃れた[1]。
その後しばらくの間草庵にすぎなかった願成寺であるが、寛永元年(1624年)に青木十兵衛(青木月感)、植田長右ヱ門(植田利康)などが中心となり、三栄本秀を招いて寺を再興する。三栄本秀は香積寺[4]住職で、当時各地を巡錫中だった。曹洞宗となり現在に至る。彦根藩主・井伊直孝(1590年 - 1659年)が観世音菩薩に帰依、願成寺の境内地や山林などを保護するため禁制令を出している[3]。
境内には2000年の「人魚サミット」を記念して設置された人魚像がある[5]。
人魚伝説[編集]
願成寺の末庵に美人の尼僧がいて、本寺である願成寺に毎日お手伝いに来ていた。いつの頃からか、かわいいショタ小姓が尼僧に付き従うようになった。初めのうちこそ微笑ましいと思っていた村人たちであったが、次第にうらやましくなった(ショタに嫉妬?)。ショタが尼僧に萌えて惚れているらしいと分かると、仏門に帰依する身である尼僧は困惑した。
ある日、寺武士が後をつけてみると、ショタは川の水中に消えた。村人たちが網を打つと、魚でも人でもない人魚が捕らえられた。動物の分際でうらやまけしからん奴だ、と、人魚はミイラにされてしまった。ミイラは諸大名や豪商の手に渡り、見世物になった。ところが、夜になるとミイラの鳴き声がそこら中に満ち満ちて、関係者のメンタルを蝕んでいった。たまりかねた関係者たちは、ミイラを尼僧の眠る願成寺に返すことにした。
田辺悟の目撃証言によると、ミイラは顔の長さ6センチ、全長72センチ程度[6]。
異説[編集]
願成寺のミイラは、小姓が淵で捕獲された3匹の人魚のうちの1匹であるという伝承もある。
蒲生郡蒲生町寺(現・東近江市蒲生寺町)の佐久良川の小姓が淵は、日照り続きの年にも常に満杯であった。一人の青年がこっそり見に行くと、3人兄弟姉妹の小姓が人とも魚ともつかぬ姿で、尻尾を使って淵に水を貯めていた。青年は黙っていたが、人魚の噂はいつの間にか広まっていた。心無い者が網で捕えてみると、それは人魚だった[5]。
人魚サミット[編集]
2000年11月3日、蒲生町あかね文化センターで全国初の「人魚サミット」が開催された。参加したのは蒲生郡蒲生町(現・東近江市)のほか、蒲生郡日野町と和歌山県橋本市、福井県小浜市、新潟県中頸城郡大潟町(現・上越市大潟区)の二市三町の代表者。人魚伝説を持つ自治体が交流を深めることで、文化・産業の相互発展を図ろうとする目的。『日本書紀』に日本最古の人魚出現記録として蒲生河(現・日野川)の記述があることにちなみ、同町で第一回が開かれた[7]。
はじめに、日本古代史に詳しい神奈川県立相模台工業高等学校教諭・胡口靖夫が、「歴史資料から人魚伝説を考える」というテーマで講演。人魚が登場する古文書の記述を振り返り、災いや長寿など国内外の様々なイメージを紹介した。続くパネルディスカッションでは、パネリストの青木俊秀(新潟県大潟町文化財調査審議会委員長)、西尾清順(小浜市商工観光課長補佐)、岩崎哲也(橋本市学文路苅萱堂保存会長)、増田與三次(日野町小野氏子総代)、松尾徹裕(願成寺副住職)、佐野允彦(朝日新聞社彦根支局長)が、まちづくりに関して意見を交換した[7]。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 田辺悟 『人魚(にんぎょ)』 法政大学出版局〈ものと人間の文化史 143〉、2008年7月15日。ISBN 978-4-588-21431-8。
- “玉尾山 願成寺”. sotozen-navi.com. 曹洞宗宗務庁. 2022年7月20日確認。
- 「伝説と歴史の舞台を歩く 小姓が淵」、『club keibun』第18号、しがぎん経済文化センター、1985年。
- “全国初の人魚サミット開催 まちづくり連携を確認=2市3町の代表が実例報告=”. 滋賀報知新聞. (2000年11月10日) 2022年7月21日閲覧。
- 『記録 人魚サミット―人魚伝説とまちおこしを考える―』 人魚サミット実行委員会、人魚サミット実行委員会、蒲生町、2000年。