重光葵
重光 葵(しげみつ まもる、1887年7月29日 - 1957年1月26日は、日本の外交官及び政治家である。第二次世界大戦後に政府全権として降伏文書に調印した。平和外交に徹していたにも関わらず、戦後ソ連の強硬な意見によりA級戦犯として起訴され懲役7年の判決を受けたことは、極東国際軍事裁判が「勝者の裁き」との批判を受ける一因をつくった。
戦前の外交官時代[編集]
1911年9月、外務省に入省した。外交方針では諸外国との協調路線を引いていた。1932年1月に上海事変における中国との停戦交渉をまとめ、調印するという時に右脚切断をすることになる爆弾テロにあう。それでも署名を果たし、手術も何とか成功したが以後、右足がない中で不便を強いられることになる。
A級戦犯[編集]
重光は戦後に外務大臣に就任し、連合国に対する降伏文書に署名した。その後ソ連代表の検事が重光をA級戦犯に加えるように求めた。元々、重光がA級戦犯となる予定はなかったものの、ソ連の強硬な要求により極東国際軍事裁判にかけられ、A級戦犯の中では一番軽かったものの、禁固7年という有罪判決を受けた。重光の有罪判決については、ケンワージー中佐などの当時の欧州側からも疑問があがり、ソ連の意向が反映されたものだという声がある。その後、4年7ヵ月服役した後に仮釈放されている。同じく外務大臣を務めた広田弘毅も有罪判決(死刑判決)を受けたことと合わせて、刑罰が重すぎるのではないかという疑問が寄せられている。
釈放後[編集]
釈放後、1954年に鳩山一郎内閣の外務大臣に就任。ソ連と交渉を行い、国交を回復して日ソ共同宣言を締結。この際、現在まで続く領土問題については棚上げされている。ソ連と国交を回復したことによって1956年12月、日本は全会一致で国際連合に加盟を果たした。新内閣の発足により外務大臣を離れた1957年1月26日に狭心症の発作を起こし、死去。