トラウトマン工作
トラウトマン工作(トラウトマンこうさく)とは、日本が日中戦争を早期解決させるためにナチス・ドイツに和平の仲介を依頼し工作したものである。別名をトラウトマン和平工作。トラウトマンとは工作が行われた当時の駐華ドイツ大使・オスカー・トラウトマンの姓から取られたものである。
概要[編集]
昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件を契機に開始された日中戦争は長期化して泥沼化しつつあった。そのため、日本側は戦争の早期終結を模索するようになる。同年10月1日に首相の近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政らが4相会談を開催し、以上の講和条件(支那事変対処要綱)を定めた。
この支那事変対処要綱を基本として、10月21日に日本は日中和平の斡旋をヘルベルト・フォン ディルクセン駐日ドイツ大使に依頼し、トラウトマン駐華ドイツ大使がこれを受けて、日本が中国側に提示した講和条件を11月5日に蒋介石に伝達した。ただし、この時に出された条件は支那事変対処要綱を基本にしていたものの、満州国の承認を外すなど一部は譲歩した姿勢も見せていた。トラウトマンが蒋介石に提示した条件は以下のものである。
- 内蒙古に自治政府を樹立すること。
- 華北に非武装地帯を設定し、親日的な行政長官を任命すること。
- 上海に非武装地帯を設定すること。
- 抗日政策の停止。
- 日中共同で防共に当たること。
- 日本商品への関税を低減すること。
- 外国の諸権利を尊重すること。
12月2日、蒋介石は中国の領土と主権の保全を前提にするなら、この条件を受諾しても良いと回答した。ところが、同時期に日本軍が南京を占領して調子に乗り出し、増長して蒋介石に対して先の7条件のほか、新たな条件を突き付けてきた。
- 満州国の承認。
- 華北・内蒙古のほか、華中にも日本軍の駐兵を認めること
この2条件を追加した上、日本側は中国側の回答を同年末までとする過酷な条件を追加したのである。蒋介石はこれに対して昭和13年(1938年)1月14日、日本側の要求の細目の説明を求めたが、これに対して近衛など日本政府は中国側の誠意が無いとして交渉を打ち切り、1月16日に「国民政府を対手とせず」とする近衛声明(第1次)を発表した。これにより、日中間の国交は完全に断絶となり、日中戦争は泥沼化した。蒋介石も1月18日、日本側の回答を得て「日本の傀儡政権は一切認めない」と宣言して強硬姿勢をとることを表明した。