林銑十郎
林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、明治9年(1876年)2月23日 - 昭和18年(1943年)2月4日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人・政治家である。陸軍大将。従二位、勲一等旭日大綬章、 功四級金鵄勲章。
斎藤実内閣と岡田啓介内閣の陸軍大臣を務め、第33代内閣総理大臣として林銑十郎内閣を組閣する(首相在任:昭和12年(1937年)2月2日 - 6月4日)。この際に文部大臣を兼任し、組閣直後には外務大臣も短期間だが兼任した。「日本史上最低の総理大臣」「愚将」と彼を評するものもおり、特に政治家としては極めて無能であったと評価されることが多い(後述)。
生涯[編集]
陸軍軍人として[編集]
明治9年(1876年)に石川県に生まれる。家は旧加賀藩士の家柄で長男だった。
明治27年(1894年)に日清戦争が始まると第4中学校を中退し、陸軍士官学校に入学する(8期)。明治36年(1903年)に陸軍大学校を卒業した(17期)。明治37年(1904年)に日露戦争が開始されると従軍して旅順攻撃に参加する。以後、陸軍大学校長・近衛師団長・朝鮮軍司令官を歴任した。
昭和6年(1931年)の満州事変の時、林は朝鮮軍司令官の地位にあったが、この時に強硬派の参謀である神田正種の意見を容れて日本政府の指示無しで朝鮮派遣軍を満州に進めた。このため、「越境将軍」の異名をとったが、これが以後は林が周囲の意見を鵜呑みにしやすいロボット、つまり傀儡になりやすい人物と見られる原因となる。
五・一五事件の後に成立した齋藤実内閣・岡田啓介内閣ではいずれも陸軍大臣を務めたが、この時も統制派の軍務局長であった永田鉄山の意見を容れて皇道派の教育総監だった真崎甚三郎を辞職させたりしている。このために皇道派の怒りを買うことになった。このようなロボットになりやすいところから、石原莞爾からは「林大将は猫にも虎にもなる。自由自在に操る事ができる」と酷評されている。
内閣総理大臣[編集]
昭和12年(1937年)2月2日、広田弘毅内閣の後を受けて組閣し、第33代の総理大臣となる。しかし周囲から操られやすいことから内閣の評判は当初から悪かった。
3月末に林は突如として衆議院の解散に踏み切った。この前日に昭和12年度の予算が成立していたので解散の理由は無く、このために「食い逃げ解散」とまで評された。この解散については前夜に右翼に強要された、2人の陸軍の予備将校と会って決意したなど、様々な憶測が噂として流れたという。林としては解散・総選挙を行なう事で新党結成の運動が起こり、政党の改革が進む事を期待していたとされ、「早く片付けて後は玄人(近衛文麿)に譲りたい」と信頼する人に漏らしていたと伝わっている。つまり二・二六事件で不安定な政情を早く正常化させたいという考えがあったのだという。
ところが、選挙になっても近衛は林が考えていたように新党の結成運動に動かないし、林も味方の政治改革派の無所属候補を積極的に支援しないなど誤算が続き、選挙後の各党の勢力図はほとんど変わらず無意味な選挙に終わる始末だった。このため右翼はもう1度解散を行なって政党を懲罰せよとの意見を出し、林を支持していた陸軍もさすがに林を見限る始末で、6月4日に林は総辞職に追い込まれた。わずか123日の短命内閣だった。
その後[編集]
昭和18年(1943年)、太平洋戦争で日本の敗色が濃くなる中、66歳で死去した。
人物像[編集]
林は他人の意見に左右されやすいロボットだったが、謹厳かつ温厚であり、無口から誤解されることも多かったという。その性格から損をしている部分もあるといえる。実際、林には後入斎(こうにゅうさい)という仇名があった。家庭の細かな問題でもなかなか結論を出さず、決断まで相当な時間をかけるが、決めた後の処理は早い。それでいて無口で説明不足と来ているから誤解を受ける事も多かったという。
私的には真面目な人物で酒を飲まず、晩年には煙草を禁じ、趣味だったビリヤードもやめたという。
信心深いところがあり、首相になってから「祭政一致」と発言した事があり、この発言を聞いた元老の西園寺公望は憲法違反にあたるのではないかと危ぶんだという。実際のところは神に仕えるつもりで誠心誠意をもって政治に取り組みたいという考えだったようである。
他人の意見に左右されやすい事はすなわち変わり身も早いという事である。実は陸相時代に辞職に追い込んだ真崎とは近しい仲で林は皇道派と見られていた。それなのに真崎を辞職に追い込んだことで統制派に鞍替えしたことが明らかになった。また、石原莞爾の助言を受けて自分の内閣の閣僚選びをしていたのに、それが陸軍の了解を得られないと悟るや、石原を遠ざけたりした。このため林の評判は当時からかなり悪かったという。
略歴[編集]
- 1916年(大正5年)11月15日 - 久留米俘虜収容所長
- 1917年(大正6年)8月6日 - 大佐に昇進
- 1918年(大正7年)7月24日 - 歩兵第57連隊長
- 1920年(大正9年)1月30日 - 技術本部付
- 1921年(大正10年)7月20日 - 少将に昇進、陸軍士官学校予科長
- 1923年(大正12年)3月17日 - 教育総監部付(フランス出張)
- 1923年(大正12年)6月30日 - 国際連盟陸軍代表
- 1925年(大正14年)5月1日 - 歩兵第2旅団長
- 1926年(大正15年)3月2日 - 中将に昇進、東京湾要塞司令官
- 1927年(昭和2年)3月5日 - 陸軍大学校長
- 1928年(昭和3年)8月10日 - 教育総監本部長
- 1929年(昭和4年)8月1日 - 近衛師団長
- 1930年(昭和5年)12月22日 - 朝鮮軍司令官
- 1932年(昭和7年)4月11日 - 大将に昇進
- 1932年(昭和7年)5月26日 - 教育総監兼軍事参議官
- 1934年(昭和9年)1月23日 - 陸軍大臣
- 1935年(昭和10年)9月5日 - 軍事参議官
- 1936年(昭和11年)3月6日 - 待命
- 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役
- 1937年(昭和12年)2月2日 - 内閣総理大臣