由比正雪

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由比 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき、慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日1651年9月10日))は、江戸時代前期の日本軍学者慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。名字油井遊井湯井由井と表記される場合もある。慶安事件の首謀者とされる。

生涯[編集]

出自に関しては定かではない。駿河出身とされるが、その場所は駿府宮ヶ崎、由比など諸説があって一定しない。ただ、かつて駿河を支配していた今川氏家臣由比正信という武将がおり、この人物は桶狭間の戦い今川義元と共に織田信長に討たれていることから、今川氏の旧臣の出自の可能性もある。

元和2年(1616年)に高松半兵衛に師事して豊臣秀吉の生い立ちなどを学んだ。この際に正雪は人間の立身出世は身分ではなく心がけ次第であると思い、天下を望む心を起こしたとされている。この頃に正雪は先祖伝来の兵法の秘密を書いた巻物を伝授され、その兵法の巻物で軍学の知識をつけていったという。

元和7年(1622年)、江戸へ出て大奥に出入りする菓子屋に奉公する。同じ頃、江戸の牛込に楠木正成の子孫と称する楠不伝という老人がおり、正成が残したとされる菊水の旗や系図、短刀などを持っていたとされ、正雪はすっかり傾倒して彼に師事し、楠木流の軍楽の秘伝を学ぶ。不伝にはかなり気に入られ、その娘と結婚した。やがて自分が弟子に軍学や武芸を教えるようになった。正雪は江戸の神田連雀町の裏店に家を借りていたが、道場の評判はかなりのもので旗本や諸大名、その家臣からも信望があり、弟子が大いに増加した。その中には徳川家康の10男である徳川頼宣までがいたという。

慶安4年(1651年)4月20日に第3代征夷大将軍徳川家光が病死する。この頃の世情は家光まで厳しい武断政治を展開して多くの諸大名が改易され、浪人が生活苦であふれていた。家光の長男・家綱は将軍相続時でわずか11歳の幼児であり、正雪はこれを討幕の好機と捉えた。浪人の救済を大義名分とし、浪人3000名を集めて家康が残した駿河久能山にある金銀を奪って駿府城を乗っ取り、それに呼応する形で同志の丸橋忠弥らが小石川にある幕府の火薬庫を襲撃し、大坂など主要都市で次々と蜂起して幕府の重鎮をその混乱の中で葬るという内乱計画だったという。だが、7月23日夜に密告によりお茶の水で槍道場を出していた丸橋が逮捕されると計画は一気に露見。家綱に代わって大老として幕政を掌握していた保科正之老中松平信綱らは正雪の生け捕りを命令した。7月25日の夜、正雪の一行が駿府茶町(現在の静岡市)の梅屋太郎左衛門の旅籠に宿泊し、計画実行を翌日に控えていた中で旅籠が包囲されると、正雪は計画の露見を悟った。捕り手は正雪に大人しく出頭するように求めたが、正雪は自分は紀伊徳川氏(徳川頼宣)の家臣であるとして拒否した。そして逃げられないことを悟り、8名の同志と共に切腹した。

この内乱未遂事件は慶安事件とも慶安の変とも言われ、連座者は300名にも及んで全て処刑された。だが、幕府もこの事件で浪人に対して穏健な政策をとることの重要性を悟り、武断政治から文治政治に改め、浪人発生抑制を図るため、末期養子をできるだけ認めて、無嗣改易を減らすなど、諸大名に大いに配慮するようになったという。

辞世の句[編集]

秋はただ、慣れし世にさへ、もの憂きに、長き門出の、心とどむな」(現代語訳:はこれまでこの世に住み慣れた私にとっても憂鬱な季節であるが、世の中には浪人があふれて嘆かわしいことだ。自分が今、あの世へ旅立つが、幕府が下々の者が毎日の暮らしに憂えの無い天下長久のご政道をなされることを念願して参りますぞ)。

この辞世の句は『慶安太平記』に記録されており、切腹する直前に遺体の傍らに置かれていた遺書に記されていたという。

登場作品[編集]