赤松常子
赤松 常子(あかまつ つねこ、1897年8月11日 - 1965年7月21日)は、労働運動家、社会運動家、政治家。参議院議員(3期)。
経歴[編集]
山口県都濃郡徳山村(現・周南市)の浄土真宗本願寺派・徳応寺に生まれた[1]。両親が運営していた孤児院や刑余者のための宿泊所を手伝う。1918年に兄・赤松克麿の勧めで京都女子専門学校(現・京都女子大学)国文科に入学。在学中、賀川豊彦の貧民救済活動を手伝う[2]。1921年に労働運動に加わるため京都女子専門学校を中退[2][3]。この前後に大阪の煙草専売局や製紙工場で工員として働く[3][4]。1923年8月に本格的に労働運動に取り組むため上京するが、まもなく関東大震災が起き、賀川豊彦の被災者救済活動を手伝う[2]。
1925年に日本労働総同盟(総同盟)と連絡を取り、岡部鉄工所消費組合の店番に就職。総同盟婦人部に入り、1926年に総同盟本部書記、1927年10月に総同盟婦人部機関誌『労働婦人』編集主任[3]、1934年に総同盟婦人部長となった[2]。この間、1927年から1940年にかけて、野田醤油争議、山一林組争議(1927年)、東京モスリン金町工場争議(1935年)など総同盟が関係したほとんどの女子労働者の争議を指導した[3]。
1926年12月に総同盟が中心となって結成した社会民衆党に参加[1]。1927年11月に赤松明子(兄・克麿の妻)らと社民党系の社会婦人同盟を結成[5]。1928年に赤松明子、阿部静枝らと社民党系の社会民衆婦人同盟を結成し[1][3]、婦人参政権獲得運動や母子扶助法制定運動などにも取り組む。1940年7月に総同盟が解散に追い込まれ、1941年2月にパイロット万年筆の教育係に就職[2]。同年3月に谷野せつ、大島美代、渡辺松子と大日本産業報国会厚生局生活指導部に嘱託として参加[6]。
敗戦後の1945年8月に市川房枝、山高しげりらと戦後対策婦人委員会を結成[3]。同年11月に日本社会党の結成に参加、婦人部長[2]。同月に羽仁説子、宮本百合子、佐多稲子、加藤シヅエ、山本杉、山室民子、松岡洋子とともに呼びかけ人となって婦人団体結成の準備を進め、1946年3月に婦人民主クラブを創立[7]。1946年7月に全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)の結成に参加[2]、執行委員[8]。同年8月に日本労働組合総同盟(総同盟)の結成に参加[2]、中央委員・初代争議対策部長[9]。
1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に社会党公認で全国区から立候補し、婦人当選者中最高得票(25万2369票)で当選[2]。1948年芦田内閣厚生政務次官。1950年参議院社会労働委員長。1953年4月の第3回参議院議員通常選挙(右派社会党公認)、1959年6月の第5回参議院議員通常選挙でも連続3期当選[4]。この間、1947年佐野学主宰の日本政治研究所(のち日本政治経済研究所)理事[10]。1947年5月全繊同盟主事[11]。1947年10月総同盟初代婦人対策部長[9]。1948年5月全繊同盟副会長、婦人対策部長、寄宿舎委員長[12]。1948年8月の世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)の結成に参加、副会長[13]。1950年社会党中央執行委員・婦人部長[3]。1951年2月婦人労働協会初代会長[14]。同年12月民主社会主義連盟(民社連)の結成に参加[10]、評議員[15]。1956年全繊同盟顧問[3]。
1960年1月の民主社会党(のちの民社党)の結成に参加、顧問[3]。1961年4月日本婦人教室の会(のち日本民主婦人の会)初代会長[14]。1961年夏に全労青婦、民社青連、日婦教宣などが集まって誕生した野外活動の運動「こだま村」の村長。1962年春「よび合うこだま運動実行委員会」委員長。1963年2月全国文化運動協会(全文協)顧問[16]。
1965年7月に伊豆韮山の温泉で死去、67歳[13]。翌年の一周忌に全繊同盟、民社党、世界連邦建設同盟、日本民主婦人の会の4団体が赤松常子顕彰会を結成し、1971年に赤松賞を制定した。現在はUAゼンセン、民社協会、世界連邦運動協会の3団体で運営している[17]。
親族[編集]
- 父方の祖父:与謝野礼厳(1823-1898) - 願成寺(浄土真宗本願寺派)住職、歌人。
- 母方の祖父:赤松連城(1841-1919) - 徳応寺(浄土真宗本願寺派)住職。
- 父:赤松照幢(1862-1921) - 徳応寺住職、歌人与謝野鉄幹の兄。
- 母:赤松安子(1865-1913) - 社会事業家、教育家。
- 兄:赤松智城(1886-1960) - 宗教学者、京城帝国大学教授。
- 兄:赤松信麿(1889-1923) - 医学者。
- 兄:赤松義麿(1892-1946) - 美学者[18]。
- 兄:赤松克麿(1894-1955) - 国家社会主義者、衆議院議員。妻の赤松明子は吉野作造の次女[19]。
- 弟:赤松五百麿(1900-1934) - 労働運動家。
- 弟:赤松廉麿(1901-1974) - 念仏行者[18]。
出典[編集]
- ↑ a b c メールレポート 「友愛労働歴史館たより」 第80号・2014.05.08(PDF) 日本労働会館
- ↑ a b c d e f g h i 堀川祐里「戦時期の女性労働者動員政策と産業報国会 : 赤松常子の思想に着目して」『大原社会問題研究所雑誌』715巻、2018年5月
- ↑ a b c d e f g h i 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、9-10頁
- ↑ a b 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ↑ 井上輝子、上野千鶴子、江原由美子、大沢真理、加納実紀代編集『岩波女性学事典』岩波書店、2002年
- ↑ 丸岡秀子、山口美代子編集・解説『日本婦人問題資料集成 第10巻 近代日本婦人問題年表』ドメス出版、1980年、210頁
- ↑ 婦人民主クラブ二十年史編纂委員会編『航路二十年――婦人民主クラブの記録』婦人民主クラブ、1967年
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第2巻』全国繊維産業労働組合同盟、1965年、64頁
- ↑ a b 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、1323-1326頁
- ↑ a b 福家崇洋「一国社会主義から民主社会主義へ : 佐野学・鍋山貞親の戦時と戦後」『文明構造論』Vol.9、2013年10月
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第2巻』全国繊維産業労働組合同盟、1965年、204頁
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第2巻』全国繊維産業労働組合同盟、1965年、336、348頁
- ↑ a b 赤松賞 UAゼンセン
- ↑ a b 法政大学大原社会問題研究所編『新版 社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年
- ↑ 日本労働年鑑 第25集 1953年版(PDF) 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 脇田由郎「教宣人生雑記-15-」『同盟』第252号、1979年7月
- ↑ 赤松賞の監査に行きました(6/15) 及川妙子の元気日記(2020年6月18日)
- ↑ a b 菊池暁「赤松智城論ノオト : 徳応寺所蔵資料を中心に」『人文學報』第94号、京都大学人文科学研究所、2007年2月
- ↑ 赤松明子(あかまつ あきこ)とは コトバンク
関連文献[編集]
- 赤松常子述『労働組合の正しい運営――闘わずして勝つ組合』(労働文化研究所[労働文化シリーズ]、1959年)
- 『道絶えず――赤松常子,その人とあしあと』赤松常子顕彰会、1966年
- 赤松常子編集委員会、大門出版編集制作『雑草のようにたくましく――赤松常子の足あと』赤松常子顕彰会、1977年