安井二郎
安井 二郎(やすい じろう、1911年3月3日 - 1980年10月16日[1])は、労働運動家、労働問題研究者。全繊同盟副会長、化繊連会長、総同盟岡山県連会長、日本フェビアン研究所事務局長、立正大学教授。イギリスの労働問題を研究した[2]。
経歴[編集]
京都市生まれ[3]。旧制第三高等学校を経て[4]、1936年京都帝国大学経済学部卒業[3]。大原社会問題研究所への入所を希望したが採用されず、倉敷絹織に入社。1938年1月に応召され満州に渡り、1942年6月に除隊。倉敷絹織倉敷工場文書課長を経て[4]、1945年同社調査課長[3]。1946年2月に退職し、労働運動に参加。倉敷絹織本社従業員組合(倉敷本社労組)を結成、組合長[5]。共産党に対抗してオルグを行い、1946年5月の倉敷絹織労働組合連合会の結成を主導[6]、初代書記長(常任理事)[7]。1946年8月の岡山県繊維産業労働組合連合会の結成を主導、初代会長。岡山県繊維産業労連の総同盟への参加を主導[4]。1946年10月に東レ労連執行委員長の間宮重一郎とともに全国化学繊維労働組合協議会(化繊協)の結成を主導、初代副会長[8]。1946年11月倉敷絹織労組連合会2代会長(1947年3月まで)[7]。
1947年1月に倉敷絹織労組連合会が全繊同盟に加盟。全繊同盟執行委員[9]。1947年3月に化繊協が全国化学繊維産業労働組合連合会(化繊連)[注 1]に改組、副会長[8]。1947年4月岡山県労働委員(1949年4月まで2期)[10]。1947年6月全繊同盟化学繊維部会初代副委員長[11]。1947年9月総同盟岡山県連副会長[12]。
1948年3月に産業復興会議の一環として結成された化学繊維産業復興会議の初代副議長[13]。1948年5月に岡山県繊維産業労連が全繊同盟の地方連合会となり、全国繊維産業労働組合岡山県繊維連合会に改称、会長[6]。1948年5月化繊連化繊部会長[8]。1948年9月社会党岡山県連再建大会で副委員長(委員長:小脇芳一、書記長:江田三郎)[14][15]。1948年10月岡山県労働組合協議会の結成に参加、副議長[16]。1948年10月左派の中原健次を破り、総同盟岡山県連会長[17]。
1949年4月に旧総同盟の右派グループが再建した総同盟岡山県連の会長に選出されるが、1949年6月に食用油購入問題(各組合から募った食用油購入の予約金が騙し取られた事件)の責任をとって辞任[18][19]。1949年4月化繊連会長[8]。1949年5月全繊同盟副会長、組織部長、調査部長(1950年6月まで)[20]。1949年8月社会党岡山県連第4回定期大会で副委員長(委員長:小脇芳一、書記長:秋山長造)[21]。1949年11月総同盟会計監査[22]。
1950年7月の化繊連第5回大会で労働運動から引退[23]。日本フェビアン研究所に入り、労働問題を研究[24]。1960年同研究所事務局長[25]、1966年理事[26]。1966年立正大学講師、法政大学講師[24]。のち立正大学教授[27]。同大学経営学部長[1]、同大学産業経営研究所長を歴任[28]。全繊経済研究所幹事(1951年6月~)[29]、全繊OB友の会副会長(1966年~)[30]、民主社会主義連盟(民社連)評議員[31]、現代総合研究集団(現代総研)常任理事、同事務局長代行(1972年9月〜1973年11月、1974年10月〜1975年8月)[32]、アジア社会問題研究所理事も務めた[33]。1980年10月16日、扁桃腫瘍のため死去[33]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『欧米の労働銀行』(日本フェビアン研究所[フェビアン・パンフレット]、1951年)
- 『勞組の經營する共濟制度――英米の実例』(日本フェビアン研究所[フェビアン・パンフレット]、1951年)
- 『日本における労働組合の経営する福祉活動』(日本労働協会調査研究部[調査研究資料]、1960年)
- 『繊維労使関係の史的分析――労使関係の日本的特殊性の再検討』(御茶の水書房、1967年)
- 『産業民主制の新展開――イギリスの労使協議制を中心に』(日本生産性本部生産性労働資料センター、1968年)
共著[編集]
- 『港湾労働における労働災害』(鈴木繁、松尾光芳、古西信夫共著、成文堂、1972年)
訳書[編集]
- G・D・H・コール『イギリス勞働階級の諸運動――概略的な研究手引』(日本フェビアン研究所[英國フェビアン協會叢書]、1952年)
- デビット・カシュマン・コイル『低開発国の経済援助』(時事通信社[時事新書]、1965年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 1949年4月に化繊連として全繊同盟に加盟。1952年7月に全繊同盟化繊部会に改組。
出典[編集]
- ↑ a b 『全国労働金庫協会三十年史』全国労働金庫協会、1981年、115頁
- ↑ 安井二郎『産業民主制の新展開――イギリスの労使協議制を中心に』日本生産性本部生産性労働資料センター、1968年
- ↑ a b c デビット・カシュマン・コイル著、安井二郎訳『低開発国の経済援助』時事新書、1965年
- ↑ a b c 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 12 占領下の民主主義』労働教育センター、1979年、221-222頁
- ↑ クラレ労働組合史編集委員会編『クラレ労働組合史 1』ゼンセン同盟クラレ労働組合、1977年、43頁
- ↑ a b 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 12 占領下の民主主義』労働教育センター、1980年、226-227頁
- ↑ a b 倉敷レイヨン労働組合連合会、倉敷レイヨン西条工場労働組合編『十年史』倉敷レイヨン西条工場労働組合、1957年、106頁
- ↑ a b c d 倉敷レイヨン労働組合連合会、倉敷レイヨン西条工場労働組合編『十年史』倉敷レイヨン西条工場労働組合、1957年、110-113頁
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史――年表 1865-1961』全国繊維産業労働組合同盟、1963年、199頁
- ↑ 岡山県地方労働委員会事務局編『岡山県地方労働委員会40年史』岡山県地方労働委員会事務局、1980年、25-29頁
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第6巻』全国繊維産業労働組合同盟、1975年、208頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 13 冷戦下の闘い』労働教育センター、1979年、94頁
- ↑ 倉敷レイヨン労働組合連合会、倉敷レイヨン西条工場労働組合編『十年史』倉敷レイヨン西条工場労働組合、1957年、13-14頁
- ↑ 安井二郎「社会党岡山県連再建の努力」、『江田三郎』刊行会編『江田三郎――そのロマンと追想』『江田三郎』刊行会、1979年、246-248頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 13 冷戦下の闘い』労働教育センター、1979年、240頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 13 冷戦下の闘い』労働教育センター、1979年、184頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 13 冷戦下の闘い』労働教育センター、1979年、220-221頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 14 転換の時代』労働教育センター、1980年、58頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会労働運動史編集委員会編『岡山県労働運動史』岡山県労働組合総評議会、1964年、236頁
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史――年表 1865-1961』全国繊維産業労働組合同盟、1963年、244-245頁
- ↑ 岡山県労働組合総評議会編、水野秋執筆『岡山県社会運動史 14 転換の時代』労働教育センター、1980年、146頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、1329頁
- ↑ クラレ労働組合史編集委員会編『クラレ労働組合史 1』ゼンセン同盟クラレ労働組合、1977年、142頁
- ↑ a b 安井二郎『繊維労使関係の史的分析――労使関係の日本的特殊性の再検討』御茶の水書房、1967年
- ↑ 稲葉秀三、有沢広巳、都留重人、高橋正雄編『社会改革への提言――日本フェビアン研究所10周年記念』勁草書房、1960年
- ↑ 『フェビアン研究』第17巻第5号、1966年5月
- ↑ 安井二郎「イギリスの低成長と労働者の状態」『資料平和経済』第97号、平和経済計画会議、1969年
- ↑ 立正大学産業経営研究所ビジネスゲーム研究会編『ビジネスゲーム――部門管理ゲームから全体管理ゲームへ』同友館、1980年
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第2巻』全国繊維産業労働組合同盟、1965年、735頁
- ↑ 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第6巻』全国繊維産業労働組合同盟、1975年、40-41頁
- ↑ 中村勝範「中村菊男・人と思想(十五)」『改革者』第20巻第4号(通巻232号)、1979年7月
- ↑ 正村公宏「解説――あとがきに代えて――」、大河内一男、松前重義、長洲一二、正村公宏編『改革の時代――現代総合研究集団提言集』日本経済新聞社、1977年、330-331頁
- ↑ a b 『アジアと日本』通巻第83号、1980年11月