下曾根信恒
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下曾根 信恒(しもそね のぶつね、? - 天正10年(1582年))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。受領名は出羽守[1]。仮名は源六郎[1]。出家して法号は岳雲軒浄喜という[1]。
生涯[編集]
下會根家は武田信重の子である武田賢信を祖とする庶流の武田一族である[1]。信恒はそのため武田家中において御一門衆としての待遇を受けた[1]。永禄2年(1559年)2月、高坂昌信(春日虎綱)の後を受けて信濃小諸城代となる[1]。天正10年(1582年)、織田信長による武田征伐が開始されると、3月16日に武田勝頼の従兄弟である武田信豊が小諸城に逃れてきた[1]。この信豊を信恒は討ち、その首級をもって信長に降伏して保身を図ったが許されず、信恒は殺害された[1]。