袁煕
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袁 煕(えん き、? - 207年9月)は、中国の後漢末期の武将。字は顕奕(けんえき)[1]。父は袁紹。兄は袁譚。弟は袁尚。従兄弟は高幹。妻は甄氏。
生涯[編集]
袁紹の次男で、父の命令で幽州刺史となる[1]。202年に父が亡くなると袁家では後継者争いが起こるが、袁煕は弟の袁尚を支持した[1]。204年に袁尚が曹操と袁譚に敗れて頼ってくると匿うが、部下に背かれて逃走を重ねた[1]。最終的に袁尚と共に遼東の公孫康を頼って逃げ延びたが、公孫康により袁尚と共に斬られた[1]。斬られる際に袁尚が公孫康に対し「寒いから筵を用意しろ」と求めた際、袁煕は激怒して「これから首が万里の旅に出ると言うのに、なぜ筵が必要なのか!」と述べて、潔く刑に服したという。
『三国志演義』では袁紹から柔弱な人物と評され、官渡の戦い後は敗れた父を助けるために6万の兵力を引き連れて来るが曹操軍に敗れて矢傷を負って敗走。最後はほぼ史実と同じである。
『三国志集解』では後に皇帝となった曹叡の実父とする説が紹介されている。また袁紹の息子で無能と評価されることが多いが、異民族が跋扈する幽州を8年にわたり統治した手腕や鳥丸と良好な関係を築き上げた実績、最後の公孫康の謀殺も実は察していたとする説などがあり、実際はそこそこ有能な人物だったのではないかと見られるところもある。
唐の時代に宰相にまで上り詰めた袁恕己は袁煕の子孫であるとする説もある。