文昭皇后甄氏

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文昭皇后甄氏(ぶんしょうこうごうしんし、182年12月 - 221年6月)は、後漢末期から三国時代にかけての女性。最初は袁紹の次男・袁煕の妻だったが、後にの初代皇帝・文帝の妻となる。第2代皇帝・明帝の生母である。名は伝わっておらず、甄氏と史料や小説などでは扱われているのが一般的である。美女であり、三国志のヒロイン的存在で知られる。

生涯[編集]

生まれ[編集]

中山郡無極県(現在の河北省無極)の出身[1]。実家は代々2000石を食む官吏であり、父親は甄逸という[1]。母親は安喜君張氏[2]。甄逸は上蔡の令を務めたが、甄氏が3歳の時に死去した[1]。彼女は甄逸の3男5女の5女である。実は甄豫甄厳甄堯甄姜甄脱甄道甄栄と彼女の兄や姉の名は全て史料で記録されているのに、何故か甄氏のみは名が記録されていない[1]

幼い頃[編集]

甄氏は就寝すると毎夜玉衣を彼女の上に被ける人がいる様子がおぼろげに見えるので家人をはじめ人々はいつも不審がった[1]。父親が死ぬとまだ小さいのに泣き叫んで父を慕うので、家人も近所の人々もどこか違った子だと思うようになっていた[1]。高名な人相見の劉良は兄弟姉妹の人相を見て甄氏を指さし「この娘さんの高貴なことは口では表現できないほどだ」と言ったという[1]

甄氏はきちんとした子で子供の頃から遊びふざける事はなく、8歳の時に家の表で馬の曲芸をやっていて家族や姉らは家の高殿に登って見物したが、甄氏は見に行こうとしなかった[3]。姉がどうして来ないのかと言うと「こんなものは大体女の人が見るものでしょうか」と言ったという[3]。9歳になると書法を好み、字を見るたびに覚えてたびたび兄らの筆や硯を使った[3]。兄がそんな甄氏に「お前は女の仕事を習うべきだ。文字を習って学問して女博士にでもなるつもりか」と言うと「聞くところによれば、昔の優れた女性は過ぎ去った時代の成功、失敗の跡を学んで自分の戒めとしない者はいなかったそうです。文字を知らなければ何によってそれらのことを見たらよいのでしょう」と返したという[3]

青年期[編集]

14歳の時に次兄が病死したため、甄氏は礼の定めを越えるほど激しく悲しみ、未亡人となった兄嫁に慎みと敬意をもって仕え、事あるごとにその苦労を引き受けて兄の遺児を慈しみ育て心のこもった慈愛を注いだ[4]。甄氏の母親は厳しい性格で嫁に対する態度は一定していたが、甄氏はそんな母に「兄は不幸にも若死にされ、お義姉さんは若いのに操を立て、一人っ子を気にかけて留まっておられます。道理から言えば彼女の処遇は嫁に対するようになさるのが当然でしょうが、愛情は娘に対するのと同じになさいますように」と諌めた[4]。母はこの言葉に感動して涙を流し、甄氏と兄嫁を一緒に暮らさせた[4]。2人は常に一緒に連れ立っており、ますます親密な愛情を持つようになった[4]

当時は董卓が死去して天下が大いに乱れた時期にあたり、各地で飢餓が流行していた。民衆は食べるために金銀財宝を売り払って食糧に変えたが、甄家は食糧の備蓄があったのでそれらの財宝を買い込んでいった[4]。それを知った甄氏は「今は世の中が乱れているのに家では宝物をたくさん買い込んでいます。罪科もない人でも宝物を抱いていれば罪を負わされて身を亡ぼすもとになるとか。また周りの者が皆飢えに苦しんでいるのですから、親類や近所の人々に穀物を振る舞って差上げ、広く恩恵を施すに越したことはございません」と母親に諫言し、母親は最もだと思って甄氏の言う通りにしたという[4][5]

袁煕との結婚[編集]

甄氏が袁煕と結婚した時期に関しては定かではない[5]。『甄皇后紀』では建安年間とする記録のみがあるため、14歳から上で結婚したことになる[5]。袁煕は袁紹の次男で幽州刺史になったが、甄氏は幽州に赴かずにに留まり、姑の世話をしていた[5]

袁紹が202年に死去すると、袁家では袁煕の兄・袁譚と弟の袁尚が後継をめぐって争い、それに付け込んだ曹操の北上が行なわれた[5]

曹丕との結婚[編集]

204年、曹操は嫡子の曹丕に鄴攻略を命じ、その際に留守を守っている甄氏が美貌である事を知っていたため捕えて自分に献上しろと曹丕に命じた[5]。鄴は陥落し、甄氏は捕虜になった[5]

この時の曹丕と甄氏の出会いには幾つかの説がある。

  • 魏略』では袁紹未亡人と甄氏は一緒に皇堂(四方に壁の無い部屋)に隠れていたが曹丕に発見され、甄氏は恐怖の余り未亡人の膝の上に顔を伏せていたが、曹丕が顔を上げるように求めて未亡人は甄氏を抱えて上を向かせ、曹丕は近寄って甄氏の顔をじっくりと見て美女であるのを見て賞賛のため息をつき、曹丕は曹操に甄氏を自分の嫁にすると言って曹操も曹丕の気持ちを察して許したという。この際、曹操は内心で甄氏を自分の物にしようとしたのが息子に先越されて悔しがったという。
  • 世語』では鄴陥落時に曹丕が袁尚の屋敷に乗り込んだが、その屋敷にひとりの女性が隠れていた。髪を振り乱し垢だらけの顔をしており、背後に袁紹未亡人が涙を流しながらいた。曹丕が彼女を誰かと聞くと「袁煕の妻です」と答え、曹丕は甄氏の髻を掴んで手拭いで顔を拭くと、甄氏の類稀な美しい容姿が現れた。曹丕はその後立ち去ったが、その時に甄氏は未亡人に「殺される心配は無いでしょう」と言った。その通り、甄氏は曹丕に妻として迎えられて寵愛された。

『魏書』によると曹丕は甄氏を寵愛してゆき、甄氏は曹丕の寵愛が深まれば深まるだけますます自制して控えめの態度を取り出した。後宮の女官で曹丕から寵愛を受けていた者にはいっそう可愛がってもらうように力づけて努力させ、寵愛を受けていない者には慰めて忠告してやるのが常だったという。

ある時には宴席で曹丕に対し「昔、黄帝の子孫は数も多く栄えましたが、多分側室が大勢いたことがこのような幸せを手に入れた原因なのでしょう。広く才能に優れた女性を探し求めて跡継ぎをお増やしになりますよう願っています」と言ったとされ、曹丕からの寵愛はますます深まっていった[6]

曹丕が側室の任氏を追放しようとした際には任氏が地方の名家である事、自分が及ばない婦徳と容貌を持っていることから追放をやめるように哀願し、曹丕が任氏が性格が短気で従順ではなく、怒らせた事もたびたびある事を理由に追放するのだと理解を求めた際に甄氏は涙を流しながら任氏を追放したら私のせいだと噂され、上は利己心をあらわに示したという非難を受ける心配があり、下は寵愛を一人占めにした罪を受けることになるから思い直すように求めたという。だがこの時は甄氏の意見は聞き入れられず、任氏は追放された[7]

211年、曹操が馬超韓遂らと戦うために関中に出陣した際、曹操の夫人で曹丕の母親である卞氏は孟津に留まっていた際に体調を崩したので、甄氏は心配して1日中涙を流して心を痛め、側仕えの者が何度も快癒したと伝えても信用せず「お義母様は家においでの時も持病を起こされるといつも長い時間がかかるのが常でした。今ご病気がすぐ治るなんて早すぎます。これは私に心配をかけさすまいとしておられるだけなのです」と言って姑の身を一層心配した。後に卞氏から病気が治ったという返事が届いてようやく甄氏は喜んだという。

212年1月に曹操が鄴に帰還した際、甄氏は卞氏に目通りして帳の中の玉座を仰いだ。卞氏は甄氏を「本当に孝行な嫁」と賞賛したという[8]

216年、曹操は孫権を討伐するために出陣するが、この際に甄氏は病気に倒れていたので同行できず、卞氏・曹叡・東郷公主が同行した[8]217年9月に曹操が凱旋すると、甄氏の顔色がすこぶる良くなったのでそれを見咎めた卞氏の側近が「2人のお子様と長い間離れておられました。下々の人間の感情を頭に置いてはいけませんが、貴方様のお顔の色が前より一層お元気そうなのは、どうしてでございましょうか」と尋ねると「叡たちはお義母様に付いて行ったのですから、私に何の心配することがありましょう」と笑いながら言ったという[8]

220年10月、夫の曹丕が献帝からの禅譲を受けて文帝として即位すると、甄氏は文帝から御璽を押した文書を送られて行在所に来るように命じられたが[8]、この際に甄氏は上表して文帝に述べたという。

  • 「私は次のように聞いております。過去にあって王朝が勃興したのち、国家を永続させ、帝位を後継者に伝えていくのは全て后妃次第であったとか。それ故必ずふさわしい人物をよく考えて選び、それによって家庭内の教化を盛んにしたのです。今、即位された当初ですから本当に賢明貞淑な婦人をお立てになって奥御殿を取り仕切らせねばなりません。その上、病気で臥せりがちであります故、敢えて取るに足らぬ意志ですが、守り通していきとうございます」(「甄皇后伝」の裴松之の註)。

甄氏は文帝が御璽を押した文書を3度もたらされて皇后になるように求められるが、3度とも辞退したという[9]。このように甄氏は大変人間が良く出来た無欲の人物として描かれている[9]

最期[編集]

221年6月に甄氏は崩御した[10]。病死ではない。夫の文帝の勅命による自殺である。しかしなぜ自殺を命じられたのか、それに関して陳寿の記述は異常なほど短く素気ないため、明確にはわからないのが実情である[10]。陳寿の記述によると「文帝が帝位に登ったのち、山陽公(献帝)が2人の娘を文帝の側室としてささげ、郭皇后・李貴人・陰貴人らもそろって寵愛を受けたため、甄氏はますます失意に陥って怨み言を言った。文帝は非常に立腹して221年6月、使者を遣わして自殺させ、鄴に埋葬した」とだけある。つまり文帝は甄氏の怨み言くらいで処刑したというのである。

これに関して『魏略』に次のようにある。甄氏の死後、文帝から皇后に立后された郭皇后は甄氏を恨んでいたとされ、その遺体に大斂(遺体を柩に収める儀式のこと)を受けさせず、振り乱した髪が顔に被さっていたという。また甄氏の自殺も実は郭皇后による文帝への讒言が原因であるとされている。

これに関しての傍証もある。曹叡は大変な母親想いであり、226年の文帝の崩御後に即位して明帝になっても母親が既にこの世にいない事を思い起こして悲しんだという。それを知った郭太后は憂慮した。そして郭太后が崩御すると、甄氏から自殺する直前に明帝の将来を託されていた李夫人が明帝に甄氏自殺の真相を語り、それを知った明帝は悲しんで涙を流し、郭太后の埋葬にあたっては全て甄氏と同じように行なうよう勅命を下したという[10]

漢晋春秋』ではもっと凄まじい記述で描かれている。甄氏の自殺は文帝の郭皇后への寵愛が原因で、甄氏の仮もがりの時には振り乱した髪で顔を被せ、糠を口に詰め込ませたという。そして郭皇后は文帝の命令で曹叡の養育に当たった。文帝の崩御後に明帝として即位した曹叡は母親の自殺の原因が郭太后にあると知っていたため心にいつも怒りを抱き、しばしば涙を流しながら、遂に郭太后を呼んで母親の死んだ時の状況を答えるように命じた。ところが郭太后は「先帝(文帝)がご自身で殺害なさったのに、どうして私を詰問なさるのですか。それにお前は子供でありながら、死んだ父を仇扱いにし、先の母のために後の母を罪もないのに殺してもいいものでしょうか」と言い返した。明帝は激怒し、郭太后は殺された上に甄氏の時の例に倣って葬れと命じた、とある。つまり、甄氏の仇を息子の曹叡がとったことになる。

裴松之は「甄皇后紀」に註を付けて陳寿がなぜ甄氏の死去に関して詳細に記録してないかを述べている。それによると「『漢晋春秋』の建前では国内の事件について大きな悪は隠して記さず、小さな悪は記すものである。文帝が甄氏を皇后に立てずに殺害に及んだことには、はっきりした証拠がある。魏の史官がもしこれを大きな悪と判断したのなら、隠して言わないのが当然であり、もし小さな悪だと判断したのならば架空の話を記してこれほどまでに虚偽の文章を飾り立てるべきではない。これは、昔の史書がとったとされる態度と異なっている。これから類推すると、この書物(『魏書』)が卞后、甄氏ら皇后の言動の善い点を称えているのも、全て真実に基づいた論述とは言い難いことがわかる」とある。

その他にも文帝が甄氏に自殺を命じた理由に、文帝の同母弟で後継者を争ったライバルでもあった曹植との関係を疑ったとする説もある[11]。いずれにせよ、陳寿の記録が余りに簡素なので憶測あるいは傍証しかないのが実際のところなのである。

歴史の皮肉だろうか。文帝は甄氏の死からわずか5年後、甄氏と同じ40歳で崩御している。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P63
  2. 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、255頁
  3. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P64
  4. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P65
  5. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P66
  6. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P68
  7. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P69
  8. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P70
  9. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P71
  10. a b c 伴野朗『英傑たちの三国志』、P73
  11. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P74

参考文献[編集]