文徳皇后郭氏

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文徳皇后郭氏(もんとくこうごうかくし、光和7年3月10日184年4月8日) - 青龍3年2月8日235年3月14日))は、の初代皇帝曹丕(文帝)の皇后は徳で、夫の諡を重ねて文徳皇后と諡された。女王(じょうおう)[1]、本名は不明。父は後漢南郡太守郭永[1]。母は董夫人

生涯[編集]

冀州安平郡広宗県(現在の河北省広宗県)の出身[1]。字の女王は父の郭永が彼女を評価・期待しての命名と言われる[1]。両親は早くに死去したので郭氏は没落し、彼女は召使にまで身を落として働いていたのだが、213年曹操が魏公になった際に見出されて曹丕付の女官となる[1]。彼女は才知に富んでおり、曹丕が同母弟の曹植と後継者をめぐり争っていた際には暗躍してその立太子に貢献した[1]。そのため220年に曹操が死去して曹丕が後継の魏王になると、彼女は夫人に列せられ、さらに同年に皇帝として即位すると貴嬪に列せられた[1]

曹丕の皇后である甄氏は当時、曹丕から疎まれるようになっていたが、郭氏はこの甄氏を讒言して曹丕の命令で自殺に追い込み、さらに埋葬の際には振り乱した髪で顔を覆わせ、口に糠を詰め込んだとまでいわれている(『漢晋春秋』)。

そして皇后に新しく立てられた郭氏であったが、曹丕との間に子供は生まれなかったので、やむなく甄氏の息子である曹叡を自分の子のように養育して宮中での立場を保った[1]。そのため、226年に曹丕が崩御して曹叡が即位すると、皇太后に立てられた[1]。235年に死去[1]。享年52。

郭皇后の死は曹叡による殺害とする説もある。曹叡は生母の甄氏を愛慕しており、その生母を殺す原因を作ったのが郭氏であると知って呼び出して詰問すると、郭氏は「先帝(曹丕)が自身で殺害したことです。先の母の事で罪もない後の母を殺害してもいいものでしょうか」と言ったので、激怒した曹叡により殺された上、甄氏同様に埋葬されたという[1]

三国志演義』では第91回で登場し、自らが皇后になろうという野心を抱いてちょうどこの頃、曹丕から疎まれていた甄氏を寵臣の張搯と謀って「甄氏が呪いの人形を持っている」と讒言して自殺に追い込み、自ら皇后となる。しかし子が生まれなかったため、やむなく曹叡を自分の子同様に養育するもさすがに皇太子に立てる事は躊躇した。その後は登場せず、死去は描かれていない[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 小出『三国志武将事典』P410

参考文献[編集]